地震・災害・事故
April 07, 2012
子ども・日本でいちばん美しい桜
桜の季節の車窓。大船駅から戸塚駅への間は客席に割り込んでも進行方向に対して左側に座る。子どもの頃から見慣れた工場群の景色と共に、ピンクの綿菓子みたいに優しい桜並木が今も変わっていないからだ。
ボランティア関係の仲間から呼ばれ、木曜日は徹夜明けの朦朧とした頭で新橋へ向かった。アクセスマップを印刷していたに関わらず、横須賀線の新橋ホームから、共同通信の記者会見が行われる汐留のホテルに行きつけない。地下の案内掲示板にはどこにもホテル名がなく、逗子の田舎者としては15分も遅れてしまった。「ダメだなあ」と気が滅入る。
今回の用事は、所属しているボランティア団体の災害復興支援委員会より、気仙沼の避難所にいた子どもたちが震災直後から手書きで「ファイト新聞」を作り続けたことへの応援である。初代編集長の理紗ちゃんは「避難所のみんなが明るく元気になって欲しい」と壁新聞の発行を思いつき、津波に流された自宅まで文房具を取りに戻った。ちなみにお父さんたちから3.11の状況を聞くと、1人は2階にいたまま流されたのが、家が傾かずに橋に引っかかって助かった。もう1人は20時間も屋根につかまっていたのを救助された。そんな過酷な状況を笑いながら話してくれるのは、学校にいた子どもたちが無事でいてくれたからだろう。

エプソンが最新鋭の技術でレプリカを作った「ファイト新聞」(現物は劣化して読み取り不可能な状態)が、パリのユネスコ本部のイベントで展示されることになり、私たちは子どもたち&付き添いの親御さんの交通費と宿泊費をご用立てさせて頂いた。出足が遅くて立て替えになったかもしれないが、少々でもお役に立てたのは嬉しい。子どもたちは長旅で眠くて眠くて、しかも当日中に会見場から気仙沼まで戻らなくてはいけないのに、どんな質問にも背筋を伸ばしてしっかりと答えてくれた。

今は小学2年生になった理紗ちゃんに「大人になったら新聞の仕事をしたい?」と聞いてみたら、「お医者さんになりたい」と答えてくれた。会見後にお母さんが教えてくれたことだが、おばあちゃんが若くして病死したことを聞いた理子ちゃんは、たった2歳のときに「私がお医者さんになって、お母さんのお母さんを助けてあげるね」と言ったそうだ。

そして大震災から一年後。失ったものばかりを嘆き、心を閉ざし続けていたお母さんに対して娘は明るく励ました。「気仙沼は変わっちゃったんだから、お母さんも変わろうよ!」と笑って元気付けてくれたという。
彼女を花に例えるなら「桜」だ。どんな災害が襲おうと希望の星である蕾は、うむついている人たちの顔を上向かせる花を開く。日本は変わろうよ。偉い人たちが喧嘩するのはやめようよ。誰のいる場所にも平等に桜は咲く。
会見が終わってゴーホーム。空を見ながら日が暮れる前に、一駅前の鎌倉で降りた。観光客の流れと逆行して、こんなに早くいっぱい咲いている桜を見つけて撮って、今年は最初で最後の花見とすることにした。だってね、日本でいちばんの桜はもう目に焼き付けたのだからね。ちょっとだけ私は「ダメだなあ」の人じゃなくなった。

ボランティア関係の仲間から呼ばれ、木曜日は徹夜明けの朦朧とした頭で新橋へ向かった。アクセスマップを印刷していたに関わらず、横須賀線の新橋ホームから、共同通信の記者会見が行われる汐留のホテルに行きつけない。地下の案内掲示板にはどこにもホテル名がなく、逗子の田舎者としては15分も遅れてしまった。「ダメだなあ」と気が滅入る。
今回の用事は、所属しているボランティア団体の災害復興支援委員会より、気仙沼の避難所にいた子どもたちが震災直後から手書きで「ファイト新聞」を作り続けたことへの応援である。初代編集長の理紗ちゃんは「避難所のみんなが明るく元気になって欲しい」と壁新聞の発行を思いつき、津波に流された自宅まで文房具を取りに戻った。ちなみにお父さんたちから3.11の状況を聞くと、1人は2階にいたまま流されたのが、家が傾かずに橋に引っかかって助かった。もう1人は20時間も屋根につかまっていたのを救助された。そんな過酷な状況を笑いながら話してくれるのは、学校にいた子どもたちが無事でいてくれたからだろう。

エプソンが最新鋭の技術でレプリカを作った「ファイト新聞」(現物は劣化して読み取り不可能な状態)が、パリのユネスコ本部のイベントで展示されることになり、私たちは子どもたち&付き添いの親御さんの交通費と宿泊費をご用立てさせて頂いた。出足が遅くて立て替えになったかもしれないが、少々でもお役に立てたのは嬉しい。子どもたちは長旅で眠くて眠くて、しかも当日中に会見場から気仙沼まで戻らなくてはいけないのに、どんな質問にも背筋を伸ばしてしっかりと答えてくれた。

今は小学2年生になった理紗ちゃんに「大人になったら新聞の仕事をしたい?」と聞いてみたら、「お医者さんになりたい」と答えてくれた。会見後にお母さんが教えてくれたことだが、おばあちゃんが若くして病死したことを聞いた理子ちゃんは、たった2歳のときに「私がお医者さんになって、お母さんのお母さんを助けてあげるね」と言ったそうだ。

そして大震災から一年後。失ったものばかりを嘆き、心を閉ざし続けていたお母さんに対して娘は明るく励ました。「気仙沼は変わっちゃったんだから、お母さんも変わろうよ!」と笑って元気付けてくれたという。
彼女を花に例えるなら「桜」だ。どんな災害が襲おうと希望の星である蕾は、うむついている人たちの顔を上向かせる花を開く。日本は変わろうよ。偉い人たちが喧嘩するのはやめようよ。誰のいる場所にも平等に桜は咲く。
会見が終わってゴーホーム。空を見ながら日が暮れる前に、一駅前の鎌倉で降りた。観光客の流れと逆行して、こんなに早くいっぱい咲いている桜を見つけて撮って、今年は最初で最後の花見とすることにした。だってね、日本でいちばんの桜はもう目に焼き付けたのだからね。ちょっとだけ私は「ダメだなあ」の人じゃなくなった。

March 10, 2012
震災モニュメントのかたち
宮城県石巻市を襲った津波により、公民館の屋上に乗り上げたままだったバスが1年ぶりに地上に降ろされたという。降りしきる雪の中で行われる作業を被災地の方々はどんな思いで見ていたのか、温暖な地でのうのうと暮らしている私には計り知ることが出来ない。
『宮城県石巻市雄勝町で10日、東日本大震災の津波で2階建て公民館の屋上に乗り上げたままになっていた地元観光会社のバスが約12メートル下の地面に下ろされた。
約500メートル離れた車庫から流された。被害の象徴として保存を求める動きもあったが、市は「恐怖を思い起こさせる」と撤去を決めていた。ワイヤを掛けられたバスは、大型のクレーン車を使ってゆっくり下ろされた。数日後に解体し、処分場へ搬送するという。』(2012年3月10日 読売新聞より引用)
これまでいちばん多く訪ねた被災地は石巻。「だいぶ片付いたね」と言いながら、ガレキの山がごっそりと海岸方面に移動したにしか思えず、車の窓から何度も目にした壊れた民家たちは相変わらずの姿だ。屋根がへしゃげ、壁に大きな穴があいたままでブルーシートで覆われることもなく、前にここを通ったという道しるべになってしまった。
家族で暮らしていた家が廃墟になって残っているのを見るのは辛いだろうに、家主は何処へ行ったのだろう。取り壊す資金がないのか、もしかして命を失ってしまったのか、時が止まった空間で唯一静寂を破るのは、憎たらしいカラスだけである。



3.11の爪痕を震災モニュメントとして残すかどうか、被災地では判断が分かれているという。「被災を風化させないため」という意見に対し「身内が犠牲になった建物をいつまでも見ているのは辛い」という意見。どちらも一理あると思うが、もしこれが戦争であったなら後世へ人類の平和を呼びかけるためのモニュメントとなるだろうが、自然災害による恐怖の残骸を防災の喚起を促すモニュメントと呼べるのだろうか。
1933年の昭和三陸大津波では、青森・岩手・宮城の3県に200ほどの「津波記念碑」が建てられた。中でも宮古市の港から800m、海抜60mの地点に建った石碑「大津浪記念碑」には『高き住居は 児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪、此処より下に家を建てるな』の碑文が刻まれ、文言は先人の教訓として子孫に引き継がれていった。石碑は観光収入に結び付くモニュメントにはならないが、被災者の心の傷を掘り返すような残虐性はない。思いやりと知恵のモニュメントだ。
尊い命を奪われ、今は愛する人たちを空から見守っている人たちへ、明日の14時46分には世界中で鎮魂の祈りが捧げられるだろう。我慢していた涙がまた堰を切ったように溢れるだろう。これからも仲間と一緒に細々とボランティア活動を続けていくしか能のない私だが、見聞きしたことを言葉のモニュメントとして残せればと思っている。
追記:
津波の到達点に桜の木を植樹し、逃げる道すじを後世に伝えようという陸前高田市の「桜ライン311」は、パーフェクトまでに素晴らしいモニュメントだと思う。日本人の桜、心の桜、命の桜。愛して応援します!
『宮城県石巻市雄勝町で10日、東日本大震災の津波で2階建て公民館の屋上に乗り上げたままになっていた地元観光会社のバスが約12メートル下の地面に下ろされた。
約500メートル離れた車庫から流された。被害の象徴として保存を求める動きもあったが、市は「恐怖を思い起こさせる」と撤去を決めていた。ワイヤを掛けられたバスは、大型のクレーン車を使ってゆっくり下ろされた。数日後に解体し、処分場へ搬送するという。』(2012年3月10日 読売新聞より引用)
これまでいちばん多く訪ねた被災地は石巻。「だいぶ片付いたね」と言いながら、ガレキの山がごっそりと海岸方面に移動したにしか思えず、車の窓から何度も目にした壊れた民家たちは相変わらずの姿だ。屋根がへしゃげ、壁に大きな穴があいたままでブルーシートで覆われることもなく、前にここを通ったという道しるべになってしまった。
家族で暮らしていた家が廃墟になって残っているのを見るのは辛いだろうに、家主は何処へ行ったのだろう。取り壊す資金がないのか、もしかして命を失ってしまったのか、時が止まった空間で唯一静寂を破るのは、憎たらしいカラスだけである。



3.11の爪痕を震災モニュメントとして残すかどうか、被災地では判断が分かれているという。「被災を風化させないため」という意見に対し「身内が犠牲になった建物をいつまでも見ているのは辛い」という意見。どちらも一理あると思うが、もしこれが戦争であったなら後世へ人類の平和を呼びかけるためのモニュメントとなるだろうが、自然災害による恐怖の残骸を防災の喚起を促すモニュメントと呼べるのだろうか。
1933年の昭和三陸大津波では、青森・岩手・宮城の3県に200ほどの「津波記念碑」が建てられた。中でも宮古市の港から800m、海抜60mの地点に建った石碑「大津浪記念碑」には『高き住居は 児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪、此処より下に家を建てるな』の碑文が刻まれ、文言は先人の教訓として子孫に引き継がれていった。石碑は観光収入に結び付くモニュメントにはならないが、被災者の心の傷を掘り返すような残虐性はない。思いやりと知恵のモニュメントだ。
尊い命を奪われ、今は愛する人たちを空から見守っている人たちへ、明日の14時46分には世界中で鎮魂の祈りが捧げられるだろう。我慢していた涙がまた堰を切ったように溢れるだろう。これからも仲間と一緒に細々とボランティア活動を続けていくしか能のない私だが、見聞きしたことを言葉のモニュメントとして残せればと思っている。
追記:
津波の到達点に桜の木を植樹し、逃げる道すじを後世に伝えようという陸前高田市の「桜ライン311」は、パーフェクトまでに素晴らしいモニュメントだと思う。日本人の桜、心の桜、命の桜。愛して応援します!
February 06, 2012
石巻の白いベールと真っ赤なイチゴ
抜けるような青空の下、東北新幹線の車窓から見る景色は一面の銀世界だった。仙台市内でもこれほど雪が積もったのは久しぶりだそうで、転ばないように歩きながら駐車場へと向かう。石巻へ走る車の先にはこれまでと違う被災地の風景。刺々しいガレキが撤去された平原はどこまでも真っ白で、まるで弔いのベールに覆われたかのように見えるのだ。

何度目の石巻になるだろうか今回訪れた目的は、華厳宗管長・東大寺別当の北河原公敬氏によって執り行われる慰霊・復興祈願法要で、炊き出し(ご遺族の皆様とのお食事会)のお手伝いをするためである。会場の石巻大街道斎場・清月記には横須賀のハミングバードスポルテさんが提供して下さったイチゴ300パックが届いており、さっそく私たちボランティアは洗ってお皿に盛ったり、お土産用に袋詰めしたりの準備からスタートした。本当はW支援で郡山産が届くはずだったのがこの寒波。イチゴが予定通り大きくならず、日本全国を探してやっと見つけた徳島産「とちおとめ」が午前中に到着したのである。

エプロンをしてキッチンにいると「ご焼香をしてください」との呼びかけがあり、急いで法要の会場へ。ご家族の遺影を祭壇に向けて読経を聴いていらっしゃるご遺族の方々はどなたも涙でいっぱいで、言葉に詰まって頭を下げることしかできない自分が情けなくなる。それでも私に出来る限りのことを粛々と行うのが今日の役目だ。

やがて法要と一時間の講話が終わり、ご遺族の皆様がお食事会の部屋へと入ってこられた。青いテーブルクロスの上に並んだ真っ赤なイチゴたちに「綺麗ねぇ」の声をいただく。甘い一粒を頬張って「おいしいねぇ。家の爺ちゃんが大好きだったんだけど、もういないからね」と悲しそうに微笑むご婦人に、早く春が来ますようにとお土産用のイチゴを手渡した。
会場でお手伝いをされていた小学校の先生も「子供たちに食べさせてあげたい」と翌日の給食用に。実は仙台イチゴも有名であり宮城県亘理町はいちばんの産地だったが、農家が津波の被害に遭って殆ど生産が見込めないという。



この日は14時に片づけをして東京へ帰る予定だった私たちに、突然の予定変更。残ったイチゴ16ケース(128パック)を牡鹿半島の小淵浜へと届けることになった。10月にコタツと敷・掛布団のセットを贈った仮設住宅の皆さんに食べていただくためである。懐かしい民宿めぐろのご家族やスタッフの皆さんの底抜けに明るい笑顔に再会して、まるで第二の故郷に戻ってきたような気持ちになった。


牡鹿半島は道路の舗装が良くなり、打ち上げられていた船の姿も少なくなっていたが、破壊された家々は寒風の中でそのまま。民宿めぐろの窓から見渡す津波の跡もそのままである。暮らしていた人たちはいつまでこの荒れた景色を見続けなくてはならないのだろう。あと一カ月で東日本大震災から一年。心に本当の春が訪れるのは何年先になるのかと、帰り道も白いベールの石巻を目に焼き付けた。

何度目の石巻になるだろうか今回訪れた目的は、華厳宗管長・東大寺別当の北河原公敬氏によって執り行われる慰霊・復興祈願法要で、炊き出し(ご遺族の皆様とのお食事会)のお手伝いをするためである。会場の石巻大街道斎場・清月記には横須賀のハミングバードスポルテさんが提供して下さったイチゴ300パックが届いており、さっそく私たちボランティアは洗ってお皿に盛ったり、お土産用に袋詰めしたりの準備からスタートした。本当はW支援で郡山産が届くはずだったのがこの寒波。イチゴが予定通り大きくならず、日本全国を探してやっと見つけた徳島産「とちおとめ」が午前中に到着したのである。

エプロンをしてキッチンにいると「ご焼香をしてください」との呼びかけがあり、急いで法要の会場へ。ご家族の遺影を祭壇に向けて読経を聴いていらっしゃるご遺族の方々はどなたも涙でいっぱいで、言葉に詰まって頭を下げることしかできない自分が情けなくなる。それでも私に出来る限りのことを粛々と行うのが今日の役目だ。

やがて法要と一時間の講話が終わり、ご遺族の皆様がお食事会の部屋へと入ってこられた。青いテーブルクロスの上に並んだ真っ赤なイチゴたちに「綺麗ねぇ」の声をいただく。甘い一粒を頬張って「おいしいねぇ。家の爺ちゃんが大好きだったんだけど、もういないからね」と悲しそうに微笑むご婦人に、早く春が来ますようにとお土産用のイチゴを手渡した。
会場でお手伝いをされていた小学校の先生も「子供たちに食べさせてあげたい」と翌日の給食用に。実は仙台イチゴも有名であり宮城県亘理町はいちばんの産地だったが、農家が津波の被害に遭って殆ど生産が見込めないという。



この日は14時に片づけをして東京へ帰る予定だった私たちに、突然の予定変更。残ったイチゴ16ケース(128パック)を牡鹿半島の小淵浜へと届けることになった。10月にコタツと敷・掛布団のセットを贈った仮設住宅の皆さんに食べていただくためである。懐かしい民宿めぐろのご家族やスタッフの皆さんの底抜けに明るい笑顔に再会して、まるで第二の故郷に戻ってきたような気持ちになった。


牡鹿半島は道路の舗装が良くなり、打ち上げられていた船の姿も少なくなっていたが、破壊された家々は寒風の中でそのまま。民宿めぐろの窓から見渡す津波の跡もそのままである。暮らしていた人たちはいつまでこの荒れた景色を見続けなくてはならないのだろう。あと一カ月で東日本大震災から一年。心に本当の春が訪れるのは何年先になるのかと、帰り道も白いベールの石巻を目に焼き付けた。
January 13, 2012
何も起こらなければいいのですが・・
1月10日の夕方、東京から帰る空に異常な雲がずっと出ていた。ハンドルを握っているので写真は撮れなかったが、カビかキノコみたいに角がモアーッと丸い雲たちが並び、その所々に細かい波がいっぱい出ていて、たぶん沢山の方々が地震雲関連のサイトに「気味が悪い」とアップしたはずである。
元旦の日記に「巨大地震が来る」系サイトのブックマークは削除しようと書いておきながら、横目で雲を眺めているうちに自信がなくなってきた。目黒通りから横浜へ向かう第3京浜を走る車たちもノロノロと、たぶん怪しい雲を見ている様子である。こんなに早く挫けてどうするの!?と自分を叱りながら、与六が待っている家に早く戻ろうとアクセルを踏んだ。そして翌日にスマトラがM7.3で揺れたけれど、これが結果なのか全く分からない。
勘はあっても、私は地震予知の技量は持っていないと思う。3.11以後は衛星画像を常にチェックしてきて、揺れそうな地域を囲んでアップしたりもしたが、それは素人のやることではないと撤退した。でも今日の「高知大学気象情報頁」の日本付近可視画像を見ると、関東から南(房総半島の下)の雲は素人の目にも注意を要する現象雲が出ている。

お正月から立て続けに水難に襲われたのは、予期せぬ大惨事に遭ってもパニックにならないようにさせる神様のトレーニングだったのだろうか。さらに今夜はパソコンとネットがトラぶって、キーボードが滅茶苦茶な文字を叩きだすので、このブログも四苦八苦である。
今日は福島県沖でM5.8の地震が起きた。どうか原発だけはこれ以上の破壊が起きないで欲しいと願うのみ。美しい心の人たちを守ってくださるよう、空と大地に祈りをささげ続ける夜である。さらに深夜のニュース。疫病神が副総理になる・・・。
元旦の日記に「巨大地震が来る」系サイトのブックマークは削除しようと書いておきながら、横目で雲を眺めているうちに自信がなくなってきた。目黒通りから横浜へ向かう第3京浜を走る車たちもノロノロと、たぶん怪しい雲を見ている様子である。こんなに早く挫けてどうするの!?と自分を叱りながら、与六が待っている家に早く戻ろうとアクセルを踏んだ。そして翌日にスマトラがM7.3で揺れたけれど、これが結果なのか全く分からない。
勘はあっても、私は地震予知の技量は持っていないと思う。3.11以後は衛星画像を常にチェックしてきて、揺れそうな地域を囲んでアップしたりもしたが、それは素人のやることではないと撤退した。でも今日の「高知大学気象情報頁」の日本付近可視画像を見ると、関東から南(房総半島の下)の雲は素人の目にも注意を要する現象雲が出ている。

お正月から立て続けに水難に襲われたのは、予期せぬ大惨事に遭ってもパニックにならないようにさせる神様のトレーニングだったのだろうか。さらに今夜はパソコンとネットがトラぶって、キーボードが滅茶苦茶な文字を叩きだすので、このブログも四苦八苦である。
今日は福島県沖でM5.8の地震が起きた。どうか原発だけはこれ以上の破壊が起きないで欲しいと願うのみ。美しい心の人たちを守ってくださるよう、空と大地に祈りをささげ続ける夜である。さらに深夜のニュース。疫病神が副総理になる・・・。
October 29, 2011
震災に負けない心の日だまり
10月最後の金曜日。仙台駅から2時間半で到着した牡鹿半島の小渕浜は、小春日和の長閑な海が出迎えてくれた。5月に訪れたときは茶色くなって傾いていた樹木たちも、今はまっすぐに緑の枝を伸ばしている。しかし津波の傷跡はまだ癒えておらず、倒壊した家々はそのままの姿で残っているところが多い。
小渕浜の仮設住宅にコタツと敷・掛布団100セットを贈るにあたり、仲介役となって下さったのは「割烹民宿めぐろ」のご主人・目黒さん。「ガイアの夜明け」など3.11を報道した番組によく登場した有名人である。私たち恵比寿ロータリークラブの4人をにこやかに出迎えて下さり、事細かに津波の被害について話を聞かせてくれた。

下の画像は海に向いた窓から撮ったもの。大津波は民宿のすぐ下まで左右からやってきて、浜の家々を82%も全壊させたという。今は仮設住宅で暮らしながら、民宿のスタッフとして働いている女性は「ぜーんぶ流されて、写真は一枚しか拾えなかったよ」と、あっけらかんと笑いながら説明してくれる。人懐こく親切に、遠方からやってきた客をもてなそうとする表情には微塵の陰りもない。


民宿の片側(海側)は傾いたのをジャッキアップ。流された公民館に代わって避難所となった大広間64畳には、当初50人が共同生活。余震のたびにまた津波がくるかもしれないと、夜中も変わりばんこに起きて番をしていたという。4月7日の深夜に震度6の揺れが来た時には、全員が一斉に裏山へ避難したそうだが、そのときに比べれば今のちょっとの揺れ程度は慣れっこになってしまったらしい。

わかめや昆布、小魚など地物の昼食を戴いたあとは、外に出てコタツの贈呈式。二人の区長さんが自ら軽トラックを運転して、仮設住宅へ何度も往復して運搬作業を行う。どこへ何個届けるか既にリストまで出来ていて、この日を待ちわびていたことが伺い知れた。
道をふさいで作業をしているので、通りかかった車は待たされているのだが、誰も文句を言わない。「ここは小渕浜の銀座通りだ」と笑う目黒さんとは、すれ違う人も車も全員が知り合いで声をかける。大広間の避難所で3か月にわたり同じ釜の飯を食べた家族なのだ。


山のふもとに何列も並んだ仮設住宅はとても静か。通路に座って網を作っている漁師さんの仕事を見せて貰っていると、チラホラと住人のみなさんが外に出てきた。おばあちゃんがおぶっている男の子は、お母さんが地震の時に産気づき、ヘリコプターで石巻の日赤に運ばれて生まれたという奇跡のベビー。
「良かったら、中を見てってください」と招き入れてくれた仮設住宅には、可愛い写真が壁にいっぱい貼ってあった。初めての冬を迎える赤ちゃん。しかしトタン屋根の天井からは冷気が伝わりやすく、壁にもたれかかるとひんやり。床にはパンチカーペットが敷かれているが、はいはいするには痛くて冷たいので、避難所から貰ってきた畳を敷くなどあれこれ工夫している様子も見せて頂いた。



道路に積み上げられたコタツは掛布団・敷布団と数を合わせながら、またトラックに積んで敷地の奥へと運ばれていく。受取りにきた老夫婦が「これで暖かく年を越せます」と、何度もお辞儀をして喜んでくれる姿に、長い移動距離の疲れなど即座に吹き飛んでしまった。

これまで何度か被災地に来たけれど、こんなに地元の皆さんと話が出来たのは初めてで、苦難を乗り越えてきた強さには感服するのみである。泣かない、怒らない、負けない。冗談を欠かさず、いたわりあいながら、心の中に日だまりを持っている人たちなのだと思った。
午後2時過ぎに帰途の車に乗ると、見送ってくれる目黒さんが後ろで大きく手を振っている。「頑張って下さい」なんて言葉は決して使いたくなく、「ありがとうございます」「また寄らせて頂きます」しか言えない私だったけれど、こんな貴重な出会いをプレゼントして下さった皆さんには幾ら感謝してもしきれない。
「幸せは分け合うほど増えていく」ばかりか、分け合うほど大きくなることを実感した一日であった。
小渕浜の仮設住宅にコタツと敷・掛布団100セットを贈るにあたり、仲介役となって下さったのは「割烹民宿めぐろ」のご主人・目黒さん。「ガイアの夜明け」など3.11を報道した番組によく登場した有名人である。私たち恵比寿ロータリークラブの4人をにこやかに出迎えて下さり、事細かに津波の被害について話を聞かせてくれた。

下の画像は海に向いた窓から撮ったもの。大津波は民宿のすぐ下まで左右からやってきて、浜の家々を82%も全壊させたという。今は仮設住宅で暮らしながら、民宿のスタッフとして働いている女性は「ぜーんぶ流されて、写真は一枚しか拾えなかったよ」と、あっけらかんと笑いながら説明してくれる。人懐こく親切に、遠方からやってきた客をもてなそうとする表情には微塵の陰りもない。


民宿の片側(海側)は傾いたのをジャッキアップ。流された公民館に代わって避難所となった大広間64畳には、当初50人が共同生活。余震のたびにまた津波がくるかもしれないと、夜中も変わりばんこに起きて番をしていたという。4月7日の深夜に震度6の揺れが来た時には、全員が一斉に裏山へ避難したそうだが、そのときに比べれば今のちょっとの揺れ程度は慣れっこになってしまったらしい。

わかめや昆布、小魚など地物の昼食を戴いたあとは、外に出てコタツの贈呈式。二人の区長さんが自ら軽トラックを運転して、仮設住宅へ何度も往復して運搬作業を行う。どこへ何個届けるか既にリストまで出来ていて、この日を待ちわびていたことが伺い知れた。
道をふさいで作業をしているので、通りかかった車は待たされているのだが、誰も文句を言わない。「ここは小渕浜の銀座通りだ」と笑う目黒さんとは、すれ違う人も車も全員が知り合いで声をかける。大広間の避難所で3か月にわたり同じ釜の飯を食べた家族なのだ。


山のふもとに何列も並んだ仮設住宅はとても静か。通路に座って網を作っている漁師さんの仕事を見せて貰っていると、チラホラと住人のみなさんが外に出てきた。おばあちゃんがおぶっている男の子は、お母さんが地震の時に産気づき、ヘリコプターで石巻の日赤に運ばれて生まれたという奇跡のベビー。
「良かったら、中を見てってください」と招き入れてくれた仮設住宅には、可愛い写真が壁にいっぱい貼ってあった。初めての冬を迎える赤ちゃん。しかしトタン屋根の天井からは冷気が伝わりやすく、壁にもたれかかるとひんやり。床にはパンチカーペットが敷かれているが、はいはいするには痛くて冷たいので、避難所から貰ってきた畳を敷くなどあれこれ工夫している様子も見せて頂いた。



道路に積み上げられたコタツは掛布団・敷布団と数を合わせながら、またトラックに積んで敷地の奥へと運ばれていく。受取りにきた老夫婦が「これで暖かく年を越せます」と、何度もお辞儀をして喜んでくれる姿に、長い移動距離の疲れなど即座に吹き飛んでしまった。

これまで何度か被災地に来たけれど、こんなに地元の皆さんと話が出来たのは初めてで、苦難を乗り越えてきた強さには感服するのみである。泣かない、怒らない、負けない。冗談を欠かさず、いたわりあいながら、心の中に日だまりを持っている人たちなのだと思った。
午後2時過ぎに帰途の車に乗ると、見送ってくれる目黒さんが後ろで大きく手を振っている。「頑張って下さい」なんて言葉は決して使いたくなく、「ありがとうございます」「また寄らせて頂きます」しか言えない私だったけれど、こんな貴重な出会いをプレゼントして下さった皆さんには幾ら感謝してもしきれない。
「幸せは分け合うほど増えていく」ばかりか、分け合うほど大きくなることを実感した一日であった。
October 28, 2011
男鹿半島へ行ってきます
東京発07:16はやて101号。東北へ向かう新幹線の車内でブログを書いている。家を出るときジャケットの下にセーターを着てこなかったのを悔やむ寒さは、今年の冬の訪れが早いことを予感させる。
東日本大震災の被災地へ行くのは夏以来。しかも今から向かう宮城県の男鹿半島は5月に炊き出しに行って以来である。津波だけでなく、台風の被害からの復旧もままならないと聞いているので、仙台からの道のりに時間がかかるのは覚悟の上だ。
今回の目的はコタツ(電気コタツ、敷き布団、掛け布団)100セットの寄贈。小渕浜の仮設住宅へ、私が所属する恵比寿ロータリーグラブからの時を急ぐ支援である。
政府が被災地の暖房器具費を支援するという曖昧な発表があってから、各自治体では混乱に陥っているという。支援の申し出はキャンセルされ、寒さに震える被災者たちは自ら暖房器具を買うしかないのだが、その代金は本当に返ってくるのか、どんな暖房器具でも良いのか、情報が錯綜しているのである。
夏の暑さはしのげても、東北の冬の寒さは生命の危機に結び付く。今すぐ欲しい暖房に、悠長な政府の発表が待ったをかけているとは、何て不条理なことであろうか。
一足先の26日には石巻の高齢者宅へ、ハミングバードスポルテさんと共にコタツセットを贈った。これには南相馬市へ扇風機を送るために、夏に逗子で行ったフリマの残金を充てた。
たとえ僅かでも、心のぬくもりを。幸せは分け合うほど増えていくのだから。
それでは行ってきます!

東日本大震災の被災地へ行くのは夏以来。しかも今から向かう宮城県の男鹿半島は5月に炊き出しに行って以来である。津波だけでなく、台風の被害からの復旧もままならないと聞いているので、仙台からの道のりに時間がかかるのは覚悟の上だ。
今回の目的はコタツ(電気コタツ、敷き布団、掛け布団)100セットの寄贈。小渕浜の仮設住宅へ、私が所属する恵比寿ロータリーグラブからの時を急ぐ支援である。
政府が被災地の暖房器具費を支援するという曖昧な発表があってから、各自治体では混乱に陥っているという。支援の申し出はキャンセルされ、寒さに震える被災者たちは自ら暖房器具を買うしかないのだが、その代金は本当に返ってくるのか、どんな暖房器具でも良いのか、情報が錯綜しているのである。
夏の暑さはしのげても、東北の冬の寒さは生命の危機に結び付く。今すぐ欲しい暖房に、悠長な政府の発表が待ったをかけているとは、何て不条理なことであろうか。
一足先の26日には石巻の高齢者宅へ、ハミングバードスポルテさんと共にコタツセットを贈った。これには南相馬市へ扇風機を送るために、夏に逗子で行ったフリマの残金を充てた。
たとえ僅かでも、心のぬくもりを。幸せは分け合うほど増えていくのだから。
それでは行ってきます!

October 13, 2011
被災地へコタツを贈るプロジェクト
被災地の冬は早い。仮設住宅のニュース映像では石油ストーブを使っている様子も見えるが、換気や防火を考えると、コタツが一番じゃないかと考える。ダイニングテーブルにも寝場所にも使えて一石二鳥。電気代は安いし、家族団らんには欠かせない日本ならではの暖房器具だ。
私が所属しているボランティア団体から、石巻の牡鹿半島へコタツ100セット(コタツ、敷布団、掛布団)を寄贈することについて、理事会の承認が下りた。多賀城市の電気店に発注し、小渕浜から小網倉浜に建設中の仮設住宅、もしくはその周りの個人宅が対象となる。
もっと沢山のお宅に届けたいのは山々であるが、プールした義捐金には限度がある。公平性を考えると、贈呈先選びは難しい。従ってこれまで炊き出しに行ったり、民生委員に電動自転車を寄贈した牡鹿半島を継続支援することが、ご縁を大切にするという意味での支援になると考えた。
そんな折りに新聞には、暖房器具費を政府が補助するというニュース。
そして今日、岩手県ではこんなニュース。
岩手では暖房対策が進んでいるようだが、よく読んでみると対象は仮設住宅だけ。たとえば1階が壊れたままの個人住宅で、2階で暮らしている人たちはどうなるのだろうか。
まだ行き先が決まらない人たちもいる。石巻市では11日に全避難所が閉鎖され、損壊した自宅の修復を待つ避難者たちは待機所へ移った。彼らが自宅に戻った時、暖房器具を購入する資金があるのだろうか。その頃にはどの電気店でも売り切れになっていないだろうか。
我慢してもう少し待っていろと国が言おうと、寒さは待ってくれない。石巻の天気予報を見ると、来週からは最低気温が10度を下回るし、お年寄りほど寒さが身にこたえる。今すぐ欲しい暖房器具を今すぐ送らなくては意味がないのだ。待ったをかけるタイミングが悪すぎる政府に歯がゆさを感じながら、また今日も支援に向けてメールのやり取りが続いている。
追記:
この夏、逗子でフリマを開いて得た資金で南相馬に扇風機を送りましたが、冬用にプールしておいた残金で、僅かながらコタツセットを石巻に送ることとしました。収入のない高齢者の方々に届く予定です。フリマの際、ご協力頂いた皆様に改めて感謝を申し上げます。
私が所属しているボランティア団体から、石巻の牡鹿半島へコタツ100セット(コタツ、敷布団、掛布団)を寄贈することについて、理事会の承認が下りた。多賀城市の電気店に発注し、小渕浜から小網倉浜に建設中の仮設住宅、もしくはその周りの個人宅が対象となる。
もっと沢山のお宅に届けたいのは山々であるが、プールした義捐金には限度がある。公平性を考えると、贈呈先選びは難しい。従ってこれまで炊き出しに行ったり、民生委員に電動自転車を寄贈した牡鹿半島を継続支援することが、ご縁を大切にするという意味での支援になると考えた。
そんな折りに新聞には、暖房器具費を政府が補助するというニュース。
「仮設住宅の石油ストーブ・こたつに補助 厚労省」閣議決定の段階で出たニュースとは思うが、連休を挟んでこれが発表されたせいで、情報が錯綜しているらしい。宮城県石巻では支援団体や公益法人からボランティアセンターに届くはずだった暖房器具一式がほとんどキャンセルになってしまい、被災地はパニックに陥っているという。年金のない高齢者たちが心待ちにしていた暖房器具もストップしてしまった。
厚生労働省は7日、東日本大震災の被災地の仮設住宅に、県が石油ストーブやこたつ、ホットカーペットを設置する費用を、国の負担による補助対象にすることを決めた。仮設住宅にはすでにエアコンが設置されているが、それだけでは不十分と指摘される地域もあるため、防寒対策を後押しする。
災害救助法に基づく措置で、宮城、岩手、福島などの7県に通知し、最大で全戸(6日現在で入居済みは約4万4520戸)を対象とする。どの地域で設置するのか、入居者に希望調査をするのかなど、具体的な進め方は各県の判断にゆだねる。国庫補助の割合は県ごとに違うが、被害が大きかった宮城、岩手、福島の3県では、ほぼ全額を国が実質的に負担する。
仮設住宅の防寒対策をめぐっては、野田佳彦首相が6日の国会審議で「大変寒い地域で震災が発生した。早期に結論を出すように全力を尽くしたい」と答弁していた。
(asahi.comニュース 2011年10月8日5時0分より転記)
そして今日、岩手県ではこんなニュース。
「仮設全戸に暖房器具 県、寒さ対策で設置へ」
県は12日、仮設住宅の寒さ対策として、全戸に暖房器具を設置すると発表した。石油ストーブやホットカーペットなどが災害救助法による国庫負担の対象となったことを受け、市町村が地域の実情に応じて設置。県は家庭でできる寒さ対策などの事例説明会も行う予定で、本格的な寒さの到来を前に住環境の改善を図る。
厚生労働省は7日、仮設住宅の暖房器具について新たに災害救助法による国庫負担の対象とすることを県に通知。石油ストーブ(ファンヒーターを含む)、ホットカーペット、電気こたつが対象となる。
地元業者への発注により地域経済の復興を促す狙いから、県は設置事務を市町村に委任。各世帯の事情などを勘案して市町村が選択し、各戸に一つ設置する。
県によると、暖房器具は民間支援団体や企業からも提供を受けており、宮古市、大槌町など9市町村の仮設住宅のうち希望する全世帯に提供済みという。
また、県は今月から、入居者が寒さ対策などの住環境を改善させる事例を紹介する説明会を開催。15日の釜石市の鵜住居第2仮設住宅団地を皮切りに、宮古市以南の4市で今後開催する予定だ。
県はプレハブリース業者の仮設住宅約7800戸について追加の断熱工事を実施。ハウスメーカーなどの住宅には11月末までをめどに風除室を設置する。
県生活再建課の鈴木浩之総括課長は「できるだけ早く、地域の実情に応じた暖房器具の設置を市町村にお願いしたい」と話す。
(2011/10/13 岩手日報より転記)
岩手では暖房対策が進んでいるようだが、よく読んでみると対象は仮設住宅だけ。たとえば1階が壊れたままの個人住宅で、2階で暮らしている人たちはどうなるのだろうか。
まだ行き先が決まらない人たちもいる。石巻市では11日に全避難所が閉鎖され、損壊した自宅の修復を待つ避難者たちは待機所へ移った。彼らが自宅に戻った時、暖房器具を購入する資金があるのだろうか。その頃にはどの電気店でも売り切れになっていないだろうか。
我慢してもう少し待っていろと国が言おうと、寒さは待ってくれない。石巻の天気予報を見ると、来週からは最低気温が10度を下回るし、お年寄りほど寒さが身にこたえる。今すぐ欲しい暖房器具を今すぐ送らなくては意味がないのだ。待ったをかけるタイミングが悪すぎる政府に歯がゆさを感じながら、また今日も支援に向けてメールのやり取りが続いている。
追記:
この夏、逗子でフリマを開いて得た資金で南相馬に扇風機を送りましたが、冬用にプールしておいた残金で、僅かながらコタツセットを石巻に送ることとしました。収入のない高齢者の方々に届く予定です。フリマの際、ご協力頂いた皆様に改めて感謝を申し上げます。
October 04, 2011
September 21, 2011
地震・台風・雷・豪雨・・
風雨がフォルテとピアノの強弱を繰り返すみたいに、台風15号がだんだん近づいてくる。昨日の昼過ぎ、名古屋市では人口の1/2に当たる数の市民に避難勧告が出た。こんな異常事態が今までにあっただろうか。台風はそして今日14時ごろ静岡県に上陸。もうすぐ関東にも危機が迫るのかと不安で、ずっとパソコンの端のワンセグテレビでニュースを見ている。
窓ガラスに風がドン!と当たり、雨がザーッと打ち付けると、ビビる与六が私にまとわりつく。強化ガラスなので割れはしないと思うが、今や自然災害に想定は通用しない。スマホにはウェザーニュースから暴風・洪水警報、落雷アラーム、台風アラームのメールがたびたび届き、「台風が近づくと急に風雨が強まります。特に台風中心の東側に当たる関東や東北など、外出危険レベルの暴風が吹き荒れる恐れがあります。」と告げている。神奈川では竜巻も発生しているようだ。
自然は大地を揺らし、津波を襲わせ、豪雨の被害を何度も同じ場所に引き起こす。台風15号は四国、紀伊半島沖を通り、東海から関東へ、そして東北の被災地へ。その予想進路を見ていると、ターゲットを狙い定めている兵器のように思えるほどだ。地下に地震エネルギーを溜めこんでいる震源に吸い寄せられていき、発振間近な震源は急に不自然な避け方をする。記憶に新しいのは2009年8月11日の静岡沖地震(震度6弱)で、台風9号が静岡に上陸直前の発振だった。
日本中が経済の大打撃を受けている上に、これでもか!と人間の生命力を試しているみたいな、泣きっ面に蜂の攻撃。生き残りをかけた激動の時代は序曲なのか終盤なのか、巻き込まれた暴風雨の中では何も見えないけれど、嵐が去った後の晴れた空をイメージしながら、今はひたすら耐えるのみ。
パチッと音がしてパソコンの画面が暗くなった。この薄暗い中で今度は停電である。
防災用に購入しておいたランタンに灯りを点けると、心細さがいくらか遠のく。
「颱風の 心支ふべき 灯を点ず」(加藤楸邨)
さっそく与六が灯りの横に寝そべった。言葉は喋らずとも、猫の想うことは人間と一緒なんだろうな。今夜は2人でサバイバルだ。

追記:17時30分
電気は復旧したが、現在風速26m。2階にいると風圧でドアが鳴って怖いので、1階でニュースを見ている。
防災逗子のスピーカーからアナウンス。土砂災害警戒情報が発令されたようだ。友人たちは無事だろうか。
19時10分
雨は止んだ。最大瞬間風速は36mだったそうだが、今は風向きが南西に変わり、ゴーゴーという音だけになった、ホッ
・・。でも関東以北はこれから最大級の警戒を!
窓ガラスに風がドン!と当たり、雨がザーッと打ち付けると、ビビる与六が私にまとわりつく。強化ガラスなので割れはしないと思うが、今や自然災害に想定は通用しない。スマホにはウェザーニュースから暴風・洪水警報、落雷アラーム、台風アラームのメールがたびたび届き、「台風が近づくと急に風雨が強まります。特に台風中心の東側に当たる関東や東北など、外出危険レベルの暴風が吹き荒れる恐れがあります。」と告げている。神奈川では竜巻も発生しているようだ。
自然は大地を揺らし、津波を襲わせ、豪雨の被害を何度も同じ場所に引き起こす。台風15号は四国、紀伊半島沖を通り、東海から関東へ、そして東北の被災地へ。その予想進路を見ていると、ターゲットを狙い定めている兵器のように思えるほどだ。地下に地震エネルギーを溜めこんでいる震源に吸い寄せられていき、発振間近な震源は急に不自然な避け方をする。記憶に新しいのは2009年8月11日の静岡沖地震(震度6弱)で、台風9号が静岡に上陸直前の発振だった。
日本中が経済の大打撃を受けている上に、これでもか!と人間の生命力を試しているみたいな、泣きっ面に蜂の攻撃。生き残りをかけた激動の時代は序曲なのか終盤なのか、巻き込まれた暴風雨の中では何も見えないけれど、嵐が去った後の晴れた空をイメージしながら、今はひたすら耐えるのみ。
パチッと音がしてパソコンの画面が暗くなった。この薄暗い中で今度は停電である。
防災用に購入しておいたランタンに灯りを点けると、心細さがいくらか遠のく。
「颱風の 心支ふべき 灯を点ず」(加藤楸邨)
さっそく与六が灯りの横に寝そべった。言葉は喋らずとも、猫の想うことは人間と一緒なんだろうな。今夜は2人でサバイバルだ。

追記:17時30分
電気は復旧したが、現在風速26m。2階にいると風圧でドアが鳴って怖いので、1階でニュースを見ている。
防災逗子のスピーカーからアナウンス。土砂災害警戒情報が発令されたようだ。友人たちは無事だろうか。
19時10分
雨は止んだ。最大瞬間風速は36mだったそうだが、今は風向きが南西に変わり、ゴーゴーという音だけになった、ホッ
・・。でも関東以北はこれから最大級の警戒を!September 03, 2011
台風がもたらした体調不良
体調不良でしばらくブログを休んでいた。糖質オフダイエットは始めて間もないのでその影響ではなく、むしろ気象が及ぼした体調不良だと思う。
31日の朝から胃がキリキリと痛んで、原因の分からない不快感が続いた。その日の予定をキャンセルして家にいると、午後6時33分に千葉県北西部M4.5の地震。足元に揺れを感じたのは久しぶりで、これが原因かなと思った。
ところが胃の痛みと身体のだるさは増す一方で、「このままじゃ危ない。早く何とかしなきゃ」と居ても立ってもいられない焦燥感が続く。地震恐怖症か、さもなければ鬱病になったのかと思っていたら、今朝になって体調不良がスーッと消えた。体感で地震予知をする人たちが、発振直前になって「抜けた」というのと似ている気がする。
感知していたのは今日の午前中に、四国に上陸した台風12号。お昼のニュースを見ていたら、愛媛県西条市では道路の一部が崩れるなどして、4つの地区で112世帯200人が孤立しているらしい。なんと私の生まれ故郷が被害に遭っている。さらには隣の徳島県でも行方不明者が出ているそうだが、ここも父の転勤に伴って暮らしたことがあり、童謡『またあそぼ』のモチーフになった思い出の地だ。
幼稚園のときに関東へ引っ越して来たので、故郷はうろ覚えの景色しか脳裏に残っていないけれど、DNAに刻まれた動物的な勘が、懐かしの地の危険を察知したのかもしれない。
こんな時に浮かんでくるのは、室生犀星の抒情詩。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや」
祖父母は亡くなり、知る人がほとんど居なくなってしまった故郷には、今さら帰る場所はない。それでも大雨に途方に暮れる老人が「水が床上まで来よったけんのう」と話すのを聴くと、懐かしい方言がまるで親戚のように思える。
どうか故郷の景色は、山も海も町も田畑も思い出のままでいてくれますように。変わり果てた姿で映し出されることがありませんように。今は台風がこれ以上被害をもたらさずに、早く通り過ぎてくれるのを祈るのみである。
31日の朝から胃がキリキリと痛んで、原因の分からない不快感が続いた。その日の予定をキャンセルして家にいると、午後6時33分に千葉県北西部M4.5の地震。足元に揺れを感じたのは久しぶりで、これが原因かなと思った。
ところが胃の痛みと身体のだるさは増す一方で、「このままじゃ危ない。早く何とかしなきゃ」と居ても立ってもいられない焦燥感が続く。地震恐怖症か、さもなければ鬱病になったのかと思っていたら、今朝になって体調不良がスーッと消えた。体感で地震予知をする人たちが、発振直前になって「抜けた」というのと似ている気がする。
感知していたのは今日の午前中に、四国に上陸した台風12号。お昼のニュースを見ていたら、愛媛県西条市では道路の一部が崩れるなどして、4つの地区で112世帯200人が孤立しているらしい。なんと私の生まれ故郷が被害に遭っている。さらには隣の徳島県でも行方不明者が出ているそうだが、ここも父の転勤に伴って暮らしたことがあり、童謡『またあそぼ』のモチーフになった思い出の地だ。
幼稚園のときに関東へ引っ越して来たので、故郷はうろ覚えの景色しか脳裏に残っていないけれど、DNAに刻まれた動物的な勘が、懐かしの地の危険を察知したのかもしれない。
こんな時に浮かんでくるのは、室生犀星の抒情詩。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや」
祖父母は亡くなり、知る人がほとんど居なくなってしまった故郷には、今さら帰る場所はない。それでも大雨に途方に暮れる老人が「水が床上まで来よったけんのう」と話すのを聴くと、懐かしい方言がまるで親戚のように思える。
どうか故郷の景色は、山も海も町も田畑も思い出のままでいてくれますように。変わり果てた姿で映し出されることがありませんように。今は台風がこれ以上被害をもたらさずに、早く通り過ぎてくれるのを祈るのみである。


