怒りと憎しみを超える哲学

広告

知人から本を戴いて読み耽っていた。東北大学名誉教授の田中英道氏という美術研究家が書いた『「やまとごころ」とは何か』。田中氏は東大の仏文科、美術史学科を卒業後、フランスの政府給付生の試験に合格し、ストラスブール大学で博士号を得ただけでなく、イタリアの政府給付生としてルネッサンス文化の研究で世界に名を馳せた方である。しかしフィレンツェの有名な人類学者から、西洋以前に、日本がいかに立派な文明を持っているかを諭されて、自分が日本人であることを本当の意味で自覚したという。その諭しとは以下のもの。

日本にはどちらを向いても道徳的一貫性、正義感、精神的な成熟を示す人々がいる。どの宗教、どの哲学も、人間の存在、時間、死、悪を説明する試みの一つに過ぎないことを、日本は西洋に対し書物で知らしめているのではなく、それを実践している。日本という国はその世界地図に占める割合よりも遥かに大きな国である。

私が子どもの頃、我が家にはなぜ神棚と仏壇があり、その上にカトリック系の学校に通わされるのだろうと不思議に思っていた。祖父の事業失敗で一家離散し、爪に火をともして父母が働く貧乏な家だったから、最後は神様・仏様・キリスト様で、拝めるものは全て拝め!の神頼みなのだろうと、多宗教な日本をお茶らけて見ていた気がする。

しかし田中氏が「日本書紀」の山彦、海彦の物語が意味することを解析し、日本神話は異国の血を受け入れ融合していく「民族融合」の心を象徴しているという結論に行きついたことに目から鱗が落ちた。引用する。

「日本人の伝統世界と、異質な大陸の世界が混淆(こんぎょう)し、あるときは一方が優勢で、あるときは他方が有力になり、しかしその双方が刺激しあって融和していく文化形態を、既に日本神話が語っているのである。それはまた同時に日本神話の世界性であり、ひいては現代にまで連続する日本人自身の世界性であるのだ。」

日本は縄文時代からの自然信仰を持っていたところに、聖徳太子により仏教が導入され、やがては西洋からキリスト教が入り、「人」とは「命」とは何かの意味を哲学として深く考える精神世界を持つことになったのであろう。

イスラム国に生命を奪われた後藤健二さんが2010年にTwitterに書き込んだメッセージを見た。
「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。」

祈りは宗教も国境も超え、人が人を憎んではいけない。しかし「罪を憎んで人を憎まず」はこの上なく難しい。でも憎んでいる間は争いは絶えず、自分か相手か、悲しみの犠牲を払い続けることになる。

安倍首相は「2人を殺害したテロリストは極悪非道の犯罪人であり、どれだけ時間がかかろうとも国際社会と連携して犯人を追い詰めて法の裁きにかける。」と怒りのメッセージを発したけれど、法は人間が作ったもの。正義側に立つ自分たちが作ったルールの基に、法を逸した人間は裁いて良いと豪語することへ、神は空からどんな一滴を垂らすのだろう。

私はノアの方舟に乗れるほどの存在ではないけれど、地球を存続させてくれる太陽と月に感謝し、神の一滴にも敵わない「武器」なんてものが廃絶される明日を望んでいる。宇宙から見ればアリよりも小さい人間たち。憎しみを次の世代にまで引きずるなんて想いを誰が拍手して見ているだろう。

加山雄三の『絆』という歌に書いた一節。「やがては憎しみも枯葉が朽ちるように 心の土になり消える日がくる」 を、よくあんな若いころに思いついたなあと自画自賛したりして・・・(笑)。空という屋根の下、ひとつの家族なのである。

コメント

// この部分にあったコメント表示部分を削除しました
タイトルとURLをコピーしました