「行ってきます」と「ただいま」の習慣

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独り暮らしにとって「行ってきます」と「ただいま」は必要な言葉なのかと考えることがある。与六というペットはいても、なにせ自由気ままな猫。出かけていく私を2階の窓から見送ってくれる時もあるが、視線は屋根の上で賑やかに騒ぐ野鳥たちに向けられており、さもなければ涼しい場所で寝そべって夜の運動会のために力を蓄えている。

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外出先から戻った時は玄関で「ただいま~」を連発すると、面倒臭そうにノソノソと歩いてきてマットの上に仰向けになり、頭を撫でるとニッと笑う。しかしこのお出迎えの確率は5割程度で、どこに居るのか探しに行けばベッドの上で爆睡していることが多い。食っちゃ寝ばかりで丸々と肥った古女房みたいだ。

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それでも毎回「行ってきます」と「ただいま」を口にするのは、家族と暮らしていた頃からの習慣なのか、祖父母と両親がいた実家を思い出しては切なくなる。塾から戻った夏休みの夕方、柘植(つげ)の生垣にホースで水撒きをしている父や、キッチンで祖母と一緒に夕食の支度を始めた母からの「おかえり」。麦茶を飲む私に「暑かっただろう」とリビングの扇風機を「強」にして向けてくれる祖父。思春期の娘にとって家庭の声と音は時に煩わしくもあったが、いずれ成人したとき思いやりを持った人間になるためのレッスンだったと思う。

躾という愛育の恩に気付いた時には恩返しをする人はもういなくて、教えられた習慣だけが後に残る。それは心あたたかく、慎ましく美しく暮らすこと。たとえ一人住まいであろうと「行ってきます」「ただいま」「おはよう」「おやすみなさい」を言うのは、雨露から身を守ってくれる家に対しての礼儀と愛情。台風のときに強風を防いでくれる窓ガラス1枚だって私の家族であり、ピカピカに磨いて「ありがとう」を言ってあげなくちゃいけないのだ。

いつも割烹着のポケットに雑巾を入れ、棚の隅々まで埃一つないよう磨いていた祖母は「モノには心がある」と言っていた。トイレの1輪挿しに可憐な花を欠かさないのは人間のためでなく、排泄という行為を快く受け入れてくれるトイレに対しての「ありがとう」だったのだろう。

忙しさが一段落した8月。書斎に積もった資料の山を片付け、お盆休みは意を決して大掃除に取り掛かろう。引っ越して来た頃を彷彿とさせるように家を磨いて「きれいになったね」と声をかけてあげたい。

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