司会者から指名を受けて、拍手の中で壇上に立つ。乾杯の発声などでよく使われる言葉に「誠に僭越ながら」がある。謙遜を美徳とする日本人ならではの慣用句。聞き慣れすぎて、右の耳から左の耳へ抜けてしまう社交辞令ではあるが、使う人間によっては傲慢となる。

ちなみに僭越(せんえつ)とは「身分や権限などを越えて、差し出がましいことをすること・さま」をいう。自分の身分を本当にわきまえているなら、「私のような若輩者が大役を仰せ付かってしまい・・」の謙虚さが生きてくる。しかし面の皮の厚い人間が太鼓腹でマイクの前に立てば、自分の地位や肩書きを光らしたいがための枕詞になり兼ねない。得てして後に続くのは、シャンパンの泡が消えてしまうほどの長い長いご発声だ。

自尊心の強い人物ほどジレンマを抱えている。自慢話をすれば、「大したことないくせに」と嘲笑されるのが怖い。でも聞いて欲しい、肩書きを知って欲しい。そこで前もってへりくだり、相手が「ホホーッ」と驚くまでの手法を練る。それは「越後のちりめん問屋の隠居」が徳川光圀であったり、「暴れん坊将軍」の新さんが徳川吉宗であったりと同様、カタルシス(代償行為によって得られる満足)を得るための手法でもある。

「僭越ながら」族には、大きくも見せず小さくも見せず、自然体でいいじゃないのと言いたくなる。自己主張のカムフラージュに、謙遜という衣をわざわざ着なくても、見える人には見えるのである。そのための教訓は『論語』の一節。
「師曰く、人の己を知らざるを患えず、己の人を知らざるを患えん」
(意味:人が自分のことを知らなくても気にかけず、自分が人のことを知らないのを気にかけなさい)

月は太陽の光を受けて輝くように、人間も他人の目によって輝く。心が僭越にならないよう、そのまんまの姿で生きていたいと今日も思っている。