昨日の記事(6月10日「作詞家になるには・その1」)の続き。

高校生でヤマハと著作権契約を交わし、作編曲も学んだというのに、プロになるまでは相当なブランクがあった。
広尾のS女子大に推薦で入って在学中に婚約。卒業と同時に結婚して数年で離婚。その間は女として生きることに一生懸命で、音楽で食べていく夢はどこかに置き忘れていた。

しかし再独身になって就職するには、自信の持てるものが何もない。
とりあえず何か習いに行こうと見つけたのが、青山にある作詞作曲を教えるスクール。作詞の3年間コースを選んだ。
でも場所と時間に問題が・・(^_^;) 受付に課題作品を出しておくのみで、週1回夜間の授業はいつも六本木のディスコ、お立ち台に皆勤賞だった。

3年目で研究科へ進むに当たっての講師面接。出席率は低いが作品は優秀とされ、山川啓介氏(「太陽がくれた季節」や「時間よ止まれ」の作詞者)のクラスへ入ることになった。
しかも数ヶ月後には、森山良子さんのラジオ番組の構成をやってみないかと、初仕事まで頂いたのだ。

TOKYO FMで流れる音楽ラジオドラマ。
男女が交互に台詞を語りながら間に音楽を挟むという30分番組で、放送局に入るのも初めての私には、初めてのスタジオ、初めてのレコード室、初めての台本読み・・何もかもが震える思いである。
研究科のクラスからは3人が抜擢されてのコンペティションだったが、私の作品が勝ち取ることが多かった。

当時のギャランティーは確か台本1本につき2万円だったような。生まれて初めて文章で稼いだお金は、銀座の伊東屋に行って、薄い黄色の枠が入った原稿用紙を束で買ったのを覚えている。

だんだん放送台本書きに慣れてきた頃、ディレクターから別番組の構成を依頼され、アーティストのプロデューサーからはコンサートの構成を依頼され、そして念願だった作詞も手がけるようになった。作詞に慣れたらミュージカルも書く。

高校生のときは別として、一番最初の作品は何だったか忘れてしまったけれど(たぶん外国曲に日本語の歌詞を付けたかも・・)、録音スタジオで歌手が初めて口ずさむのを聴いた瞬間は、天にも上る喜びだった。

というわけで私の場合は、大した苦労はなくラッキーな出発だったと言える。
しかし運も実力のうち。いつ巡ってくるかもしれないチャンスに対応できる力は、育てて磨いておいて損はない。
たとえ何十年後に遅れてきたチャンスでも、天職は生きている限り続けていくものなのだから。