文章で稼ぐ贅沢

作詞からプログラミングまで、文字を並べて生きる物書きのひとりごと @ 逗子

近ごろFacebookに飽きてきた。アプリの機能が多すぎて時間を取られるのに加えて、Twitterのような気軽さが無くなってきたからだ。あの人は「いいね」をくれたのか、義理でも「いいね」しなきゃダメなのか、人間関係の煩わしさも重荷になる。

やっぱりねと思ったのは、「<フェイスブック>おじさんが穴埋め?」という記事(2016年5月19日 毎日新聞)。ジャストシステムの「モバイル&ソーシャルメディア月次定点調査」の発表によると、Facebookを利用していると答えた10代が、1年前の45%から27%に落ち込んだことが分かった。しかし全体の利用者数は昨年とほぼ同じで、30〜40代の男性利用者の増加が10代の減少分を穴埋めしているそうだ。

一方で、スマホ中毒の子どもが増加している韓国では、Facebookの「いいね」が貰えなくて、一日中うつ状態に落ち込んでしまう小学生も少なくないという。中学生になると、「いいね」をもらうために友人に依頼のメッセージを送るのは常で、時には知らない人に「『いいね』をください」と頼み、SNSでの友人関係になることもある。
(「韓国の小学生、SNSの『いいね』が少なくうつに」 2016年5月19日 livedoorNEWS )

友達みんなに報告したいビッグニュースや、ビジネス、イベントの宣伝なら分かる。でも代わり映えしない日常から無理やりネタを探し、今日のランチの画像をアップしたところで、どうリアクションする? 「今○○駅で電車を待っています」「一年前はこんなことをしていました」って、だから何?と思いつつ、公開されているわけだから取りあえずは「いいね」をしておく。

これがブログだったら、見に行かなきゃ済むだけのこと。しかし垂れ流しのタイムラインに表示されると、否が応でも目に入る。面倒ならフォローをやめるか、友だちから外すかだけど、人間関係に影響が及ぶのは後ろめたい。

カリフォルニア州立大学の研究機関が警告しているのはFacebookの依存性。薬物と同じくらい強い中毒性・常習性があることが発表されている。そしてプライバシーと監視の問題。他人が自分をどう思っているかを知るために利用する人が依存症になりやすい。

自分も含めて「かまってちゃん」を生み出すFacebook。アカウントを削除して退会しようかと思うけれど、「あの人、Facebookをやめたんだってね。何かあったのかな」と噂されるのが怖い。アナログの黒電話が唯一の通信手段だった子ども時代に戻りたいこの頃である。

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ビジネスに新しいアイデアが浮かんで、さっそく始めてみると楽しくて仕方がない。大きな仕事の締め切りが迫っているけれど、平身低頭お願いしなくても1週間延ばせることになった。「お渡しする資料の提出が遅れて済みません」と、クライアントから謝辞を受けるとは前代未聞。天が味方してくれたに違いないと、能天気な解釈をしている。

もちろん好機ばかり巡ってくるのではなく、煩わしいアクシデントは起きるし、嫌がらせを仕掛けてくる輩もいる。でもそんなこと、新しい目的地へ向かっている私にとっては、ただの道路渋滞でしかない。いちいち憂慮せず、無視して迂回すれば済むだけだ。ちょっと遠回りの時間は喰ったけど、不愉快な思いを抱えて現状に居続けなくて良かったと、視界が開けたことが嬉しい。

なぜか私は秋から冬にかけて運勢全般が低下し、12月の誕生日ごろは最悪になる。信じていた人に裏切られ、心身は不調をきたし、か細く息をしながら働くだけの暗黒の期間だ。今回のブラックホールは巨大だと知って、抜け出すために「断酒」という人生初の試みをしたところ、(本当に本当に苦しかったけれど)出口には新天地の青空が広がっていた。

例えるなら目の大きなザルに自分を放り込み、ふるいに掛けた感じ。心に刺さっていた棘がパラパラと落ちて、要らない人間関係までザルの外に落ちていった。こちら側にくっ付いて残った人たちは、いま二分化に向かっている世界の中で、同じ気付きを得た人たちだと思っている。ひょんな偶然で縁が戻ってきた人たちもいる。

おそらく人間関係とは良くも悪くも、自分が作り出したフィクションだったんだろう。登場人物たちをどう動かすかに気を取られて、主人公の本人を魅力的に描けていなかったんだ。

そんなことを考えていたら、ユーミンの「チャイニーズ・スープ」の歌詞を思い出した。
「みんなこぼれて 鍋の底 煮込んでしまえば 形もなくなる もうすぐ出来上がり」
美味な人生の料理を作るために、鍋に放り込んだ種々雑多の悩み事たち。デトックス・スープができたら真っ白な器に注ぎ、ぜ〜んぶお腹に入れて、無かったことに致しましょう。

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AmazonでKindle端末を買ってから、読書の時間が増えたように思う。それまでは購入する書籍といえば、自分の仕事に関する専門書がほとんどだ。書店に行って高い棚に手を伸ばし、パラパラとめくったら裏表紙の値段を見て先ず躊躇。意を決して分厚い本を数冊買ったら、紙袋は重すぎるし財布は軽くなるしで、他のジャンルに手を出す気が失せるのが常々のパターンだった。

そんな私の生活に入り込んできたのが、ワンクリックで買えるKindle本。紙の本より割引になっているし、Amazonプライムの会員だと月に1冊は無料になる。

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ベストセラーとなっているコヴィーの『完訳 7つの習慣 人格主義の回復』も、1,620円を無料で手に入れたのは嬉しい。この本は昔に買ったのが本棚に埋もれているが、中身は何だったか忘れてしまい、近ごろのアドラー・ブームに併せてもう一度読み返したいと思っていた。しかし電車で移動しながら読むには分厚すぎたのだ。

本屋大賞の『羊と鋼の森』も、Wifiが使える行き付けのレストランでダウンロード。スマホでFacebookにイイネ!して時間潰しするより、ずっと有意義な時間が使える。

五月晴れが心地よい今日は、海が見えるベランダでランチをしながら読書。

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家のWifiを通して、無料本から「東京防災」(東京都総務局総合防災部防災管理課編集)をダウンロードした。東京都では紙版の単行本を140円で販売しているそうだが、神奈川県逗子市に住む私が水着で寝転がって、300ページ以上の情報を今すぐ手に入れられるのは便利この上ない。Kindle版はスマホでも共有できるので、都内で危機的状況に陥った時に備え、電子書籍として持っておいた方が役に立つ。

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近ごろはミニマルライフに凝っている私であるが、何も買わないことがベストだとは思っていない。熟年層には嫌われがちな文明の利器であっても、モノの価値を見極める、若くて賢い眼を養っていきたいと考えている。

パワースポットとは違うけれど、行くたびに心が洗われる場所がある。それは父がお世話になっている介護施設だ。12年前に脳出血で半身麻痺となり、高次脳機能障害に今では老人性の呆けも加わった父は、川崎市の老人ホームに入居して10年になった。

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「お父さんは優しい方で、他の入居者が暴言を吐いても決して怒らないんですよ。握手して、ありがとうと何度も言ってくれるんです。おかげでフロアが明るくなります」
終の住処として高齢者を受け入れるこの施設では、スタッフの言葉や表情に愛情が溢れる。現役のころはワガママで嫌われ者だった父が、誰より円満な性格に変わったのは、家族のように接してくれるスタッフのおかげだ。一人暮らしをしている私の健康状態まで把握して、父への心配事で気苦労しないように対処してくれる。

しかし命の時間が進めば、予想していた覚悟のときが訪れる。食物の嚥下が難しくなった父はむせて咳き込み、食後には口腔内の吸引が欠かせなくなった。病院で造影剤検査を行った結果は思わしくなく、誤嚥性肺炎や窒息を起こすリスクが高いと告げられたのである。

緊急事態の際にどう対処するか、今のうちに必要なのは施設側と家族側のコンセンサス。医師と看護師、フロア責任者、介護担当者を交えた面談で出た結論は、自然の成り行きに任せることだった。明日もし窒息死を起こす事態が起きても、病院に担ぎ込んでチューブだらけになる延命治療は行わず、終の住処で最期の時を迎えられるようにお願いした。

食事を中止して、胃ろうに切り替えれば長生き出来るかもしれない。しかし頭の9割が食事で占められている父にとって、食べることが生きる力だ。寝たきりで天井だけ見ている余生は残酷でしかないだろうし、自分だったらして欲しくないことを親に強要はできない。

数十分の面談が終わり、ランチタイムに入ったフロア。窓辺のテーブルで、父が食事をしている様子を見に行った。トレーに並んだ器に入っているのは、八宝菜、餃子、中華風スープ、ご飯が絵具みたいなペースト状になったもの。「おいしい、おいしい」とスプーンで口に運ぶ手つきはしっかりして、昔のようにビニールのエプロンにこぼすことは殆どない。それほど食に貪欲なのだ。

同じテーブルを囲んでいるのは一人では食事できない入居者たちで、スタッフが食べさせている間に眠ってしまうほど食欲が薄い。そこへ停滞した空気を動かしたのは、食べ物にむせた父のウオッホーン!という大きな咳払い。みんな驚いて目を覚まし、泣き出す者、笑う者、再び食べ出す者、何にせよテーブルには活気が戻った。

「ゆっくり、ゆっくり」
自分に言い聞かせながら、僅かに残ったペーストの一匙まで口に運んでいる父は、大喰らいと早食いの癖は昔のまま。喉が細り、これが仮に2時間かかったとしても、起きている時間を食事に費やせるなら最高の幸せに違いない。

もし私だったら、最後まで残る「生きる力」とは何だろう。大型連休最後の日曜日、スマホで流し見るフェイスブックには、それぞれの人生を楽しむ友人たちが満足げに笑っている。

いつまでも若々しく健康でありたいのは、人間ならではの願望だ。しかし医学が進歩して平均寿命が延びていくと、いったい自分は何歳まで生きるのか、身体が未知の領域に入っていくように感じる。呆けもせず、寝たきりにもならず、PPK(ピンピンコロリ)のグループに入れるかどうか、同年代たちのサバイバルゲームが始まったのかもしれない。

特にこの1週間は焦った。かつての飲み仲間が肝臓癌になったと人伝に聞いたり、ずっと連絡の途絶えていた友人から「倒れて救急搬送されて入院していた」と電話があったり、暗い話が立て続けに耳に入るのだ。次は私の番かなと不安になって、凝り性な性格は健康オタクにまっしぐら。半年前の私には有り得なかった暮らし方になった。

人付き合いを考えてアルコールは週1程度に復活したけれど、できれば蒸留酒を1杯だけで留める。食事は良質のたんぱく質と緑黄色野菜をたっぷり摂って、デザートはポリフェノール豊富な葛粉と黒砂糖少々で手作り。コンビニやファストフードは絶対に近寄らない。

美肌には基礎化粧品を使わずに水洗顔のみで、天然の保湿成分を引き出す。UVケアのしすぎはビタミンDが不足して骨粗鬆症になるので、午前中はベランダで足だけ15分の日光浴。ついでにストレッチ、腕立て伏せ、腹筋・背筋など自作のトレーニングメニューを行ったあと、帽子をかぶって家の周りをウォーキングする。

さらには薬に頼らない身体となるために、依存気味であった睡眠導入剤をやめる決心をした。酒代が不要になった分を書籍代に回して、活字を読むことで自然な眠気を呼び込む。嫌なこと・辛いことから逃げるのに、服用すると30分で眠くなるマイスリーは便利だったけれど、それじゃストレスは一向に無くならない。就寝前は読書タイム。生き方を示唆してくれる本を繰り返し読むことで、根本的な迷いを解消する方向に心を持って行ったのである。

「鳥は飛び方を変えることができないけれども、人間は決意次第で生き方の習慣を変えることができます」とは、100歳を越えて現役の医師である日野原重明さんの提言。喫煙、日々の食事、運動の有無などの習慣によって病気が引き起こされることがあるとして、「成人病」の呼称を「生活習慣病」という言葉に改称したのも日野原氏だ。毎日何気なく暮らしている中で、無意識的に続けている習慣は本当に良い物なのか。習慣の選択が心のありようも変えることに気付かなくてはならない。

自堕落な生活をしている人は魅力的に見える。しかし歳を取っても美しく生きるためには、リセットしなくちゃいけないタイミングがやってくる。2つに分岐した道の一方を歩き始めた人生の過渡期。変わっていく周辺の景色に驚いているこの頃である。



追記:
昨夜のYOMIURI ONLINEに「あいさつをしたり、朝食をとったりするなどの生活習慣を身につけ、家の手伝いをする子供ほど、スマートフォンや携帯電話を所有していてもあまり熱中しない傾向が、国立青少年教育振興機構が2日に発表した調査でわかった。」の記事が掲載されていた。
自分らしく、主体的に生きる方法を早くから身に付けているのは素晴らしい。大人たちもスマホに奪われている時間の膨大さに気づかないと。

知性と個性のファッション計画」を遂行するために、この週末は徹底的な断捨離に励んだ。服の数は記憶できる範囲内に留めなきゃと未練を断ち切り、45リットル袋4つ分もの服を資源ゴミ行きにしたのである。クリーニングタグが付いたブランド服は惜しいけれど、質の良い品は選別して海外に送られると聞き、サイズが合わないものは何処かで再利用されるよう望みを託した。

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被災地に送るという手段もあっただろう。しかし5年前にボランティアで石巻に行ったとき、衣類の入った段ボール箱が幾つも道路に放置されているのを見て、古着を送るのは失礼にあたると認識した。もしも私が被災者の立場だったら新品が欲しいし、どんな状況にあろうと人間の尊厳は対等だと思いたい。

大量のゴミ出しをしている姿を誰かに目撃されたら、勿体ないと非難されるかもしれないが、他人からどう見られるかは気にしないことにした。心理学者のアドラーが言う「他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります」が胸に刺さるからだ。

人生は一度きり。他人の忠告に従って何もしなかったことを後悔するか、暴走して失敗したことを後悔するか、私は後者を選ぶ。過去には絶対戻れないのだから、たとえ明日死ぬとしても今がスタート地点だし、自分の行いに責任を取れるのは自分しかいないのだ。

今回の熊本地震ではネット上で、芸能人の言動に対する「不謹慎狩り」が横行した。被災地に多額の寄付をすれば「偽善と売名だ」、家が倒壊して現地情報を発信すれば「愚痴りたいのはお前だけじゃない」「可哀想な私アピールがイラつく」などの批判が寄せられ、炎上騒ぎになる。まるで戦時中のアカ狩りみたいだ。

しかしその一方では、被災者がTwitterで発信した「被災時に要らないもの・・・自粛ムード、不謹慎連呼、被害の悲惨さばかり流すテレビ」が倍速で広まった。こちらのほうが正論だと、今度は一斉にネット民叩きが始まる。みんなストレスが溜まっているのかな。

人間一人ひとり個性が違うのだから価値観が違って当たり前なのに、どうして偏らないといけないのか。右向け右! 左向け左! この指とまれ現象に振り回された集団は、やがてゾンビの魔法が解けて、自分の世界に帰っていくのは目に見えている。

「あなたは他者の期待を満たすために生きているのではない。そして他者もまた、あなたの期待を満たすために生きているのではない。他者の視線に怯えず、他者からの評価を気にせず、他者からの承認も求めない。ただ自分の信じる最良の道を選ぶ」
「その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰なのか」

アドラーの言葉を念仏のように唱えながら、自分の頭のハエだけを追わなきゃ。戦うべきは他人ではなくて、成長の足りない私なのだ。まずは自分に信頼を寄せ、思い悩む前に行動した今日に花丸を付けることにしよう。

ランの代表格、シンビジウムが肉厚の花を咲かせている。ベランダに放置したまま時々の水やりだけで、夏の炎天下と冬の風雪に耐える強さだ。しかし今回は花芽が1本しか出ず、あの時みたいに天変地異の予兆かと気になっていた。

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どんなに手入れをしても、全く花芽が出なかったは5年前。3月11日に東日本大震災が発生して、根元でメジロが死んでいるのを発見した。鉢に飛び込んだのは地震の前か後か、それからすぐに福島第一原発のメルトダウンが起こった経過はブログに記してある。植物と動物は何かを感じていたんだろう。

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その年の暮れからまたシンビジウムは花芽を付け始め、春になるたび見事な花を咲かせた。スマホの緊急地震速報が鳴り響くような揺れは減っていき、警戒していた心が緩んでいく。喉元過ぎれば熱さを忘れる。空を見張って地震雲をアップすることも、いつしか止めてしまった。

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放っておいても花は毎年元気に咲くはず。しかし今年はなぜ1本だけなのか、首を傾げていたところに熊本地震が発生。4月15日の震度7から揺れは収まらず、震源は九州の中央部を中央構造線に沿って移動している。川内原発を停止しない政府にはネット上で批判が相次ぎ、ニュースの震度マップには鹿児島県が表示されないことへの疑問視まで出ているほどである。

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原子力防災担当相を兼務している丸川環境相は「原子力規制委員会において停止させる必要はないと判断されている」と報告。「今回の地震で川内原発において観測された地震動は最大で12.6ガルとなっている。これに対し、原子炉運転中に自動停止させる設定値は80〜260ガルに設定されている。さらに同発電所は新規制基準への適合性審査で620ガルの地震動を受けたとしても、安全上重要な機能は確保されることを確認している」がその理由だ。

はぐらかしのお手本みたいな報告だけど、分かってないな。国民が求めているのはコンピュータが計算した理論上の安心ではなく、揺れが収まらないことで高まっている心理的ストレスを軽減する篤実さではないのか。

政府は熊本県内の旅館やホテルに5000人分の部屋を用意し、食料品切れの小売店に70万食を届けるように要請した。事後対策として「今そこにある危機」に手を回し、カネの流れを途絶えさせない手段であるが、「明日起きるかもしれない危機」へはどう先回りするんだろう。生き物である人間が本能として持っている予知能力は、負のオーラが纏まると最悪の現実さえ引き起こしかねない。1000年以上の歴史がある阿蘇神社が崩落したことで、得体のしれない恐怖感に苛まれている人は相当数いるはずだ。

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活断層を刺激して、このまま震源が中央構造線上を移動していけば川内原発だけでなく、東には伊方原発がある。16日に起きたマグニチュード7.3が本震だと断定できるのか、もっと大きいのが来るかもしれないと不安とトラウマを抱えて、今夜も車で寝泊まりしている人たちがいる。その予感が当たった上に原発事故が起きた際には、寸断された道路を逃げるのは困難だ。

国会討議で、安心安全の言葉を何度も耳にしてきた。しかし不祥事が報道されるたびに閣僚は交代し、自分自身の安心安全さえ見えていない。植物と動物と国民はもっと感度の高いアンテナを持っているぞ。自民党政権の時に大地震は起きないという神話が崩れてしまった今、国民の心に寄り添った安心安全を与えてほしいと願わずにいられない。

: 追記 2016年4月20日 21:55
生暖かい外気。地震が心配な空です。

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テレビで時代劇を見て、昔の人たちが旅をするシーンで不思議に思うことがある。目的地まで何日も歩くのに、どうしてあんなに荷物が少ないんだろう。着替えを詰め込むスーツケースもリュックもなく、女性だって小さな風呂敷を背負っているだけだ。

ラフカディオ・ハーンの『心 ― 日本の内面生活の暗示と影響』には、昔の日本人を綴ったこんな一文がある。
「日本人が長旅を準備するには、5分もあれば充分である。なぜなら、彼らには必需品というものが少ないからだ。束縛されず、家具もなく、最小限の衣類で生きられるという彼らの才能は、日々が戦いである人生において、この国民の優位性を見事に表している」

う〜ん、今の日本には5分で長旅の準備ができる人はいないだろうな。昼間の観光はジーンズにスニーカー、レストランのディナーはワンピースとパンプス、他にもアクセサリー、メイク・ヘアケア道具、インスタントの食料、スマホのバッテリーチャージャーなど、カートに詰め込んでコロコロ引っ張るのが当たり前の姿だ。ラフカディオ・ハーンが賞賛した才能は、文明開化で和装から洋装へ変わった時代で途絶えたように思う。

余分なものを持たないミニマルな生活に憧れる私にとって、目下の悩みは服装計画。2013年の秋に、クローゼット半分の洋服を捨てる断捨離を決行したのはいいけれど、いきなり痩せたことで、この春は着るものに困っている。

脇の肉がはみ出てしまうノースリーブ、ボタンを留めるとハチ切れそうなシャツ、息を止めないとホックが閉まらないパンツ・・・、どんな高級ブランドであろうがエイヤッ!と捨てた。細身の服を二度と着られる機会はないと思ったからだ。

ところが禁酒してから自然に減っていった体重は、5カ月目にしてマイナス8kg。スウィーツをドカ食いしても太ることはなく、これ以上痩せることもなく、毎朝測る体重はきっちり同じ。服のサイズは11号から7号へ、手持ちの9号サイズもゆったりめで着られるのだが、薄着の季節は肩が落ちていると貧相に見える。

困って開いてみたのは封印していた衣装ケース。値札付きのまま捨てきれずにいた服を、スリムになって着てみれば、自分で言うのも何だが凄く似合う。しかし大いに悩むのが「流行」なのだ。一世を風靡したアバクロ(Abercrombie & Fitch)のTシャツは、着ても恥ずかしくないのか。ネット検索すると若者たちからの不人気さゆえ、ロゴマーク入りの商品を廃止しているという。

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おしゃれな湘南人たちが集う行き付けの店で、「アバクロって今も着てる人いる?」と聞いてみた。するとカウンターの隣に座っていたファッション関係者が勇気のある返事をくれた。「僕だったらここぞとばかり、A&Fのデカいロゴが入ってるのを着て歩きますよ。似合ってるんならいいじゃないですか!」

そうだよね、流行の先端を行く服を買い漁ることだけがおしゃれじゃないんだ。一番人気のブランドでしか自分を表現できないのは個性を無くしてる。量が必要なのはコーディネートの知性を逸してる。「最小限の衣類で生きられる」という昔の人たちの優位性は、自分にフィットする色と素材、カッティングの良さを追求して選んだ一枚を、手入れして大切に着続けること。その点で言えば体形が変わっても着られた和服って、なんて理にかなった衣類なんだろう。

とりあえず買い物に行くのは中止。最後まで残った手持ちの服に、知性と個性をプラスして着こなす方法を考えるのを、この春夏のテーマにしたいと思う。

2カ月間に渡って苦しんだ原稿書きがやっと終わった。来週から次の仕事が始まる前に、山積みになった資料を片付けて、部屋を春モードに切り替えよう。まずは椅子に被せていた電気掛け布団「おひとりさまっと」を洗濯することにした。

ついでにリビングのソファーに敷いたタオルケットを洗おうとしたら、ぬくぬくを好む与六が抵抗する。一日の大半を寝て暮らせる猫が羨ましいにゃ。働かず、お金がかからず、人間関係の煩わしさから解放された暮らしはできないものか。飽食の生活に引き算を取り入れたい。

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一人住まいなのに電気代が月2万円を超える我が家。パソコンに向かって徹夜するワーキングスタイルのせいなのか、改善せねばと思っていた矢先に見たテレビ番組『情熱大陸』に釘づけになった。「電気代月200円、風呂1日おき、食事は干し野菜…元記者の節電生活から学ぶ"暮らしのヒント"」、稲垣えみ子さんというフリーランサーの暮らしぶりが目から鱗だったのである。

28年勤めていた大手新聞社を「肩書から解放されたいから」の理由で退職。都内の古い賃貸マンションに住み、冷蔵庫も洗濯機もないどころか、都市ガスの契約もしていない。肉や魚は家では食べずに、道端で摘んできた野草を天日に干したのをカセットコンロで調理して、おひつに保存したご飯と一緒にいただく。調理に使った水はベランダで育てている野菜に与え、自宅の浴室は使わずに銭湯へ。暖房に関しては「周りを暖めず、自分が温まる」で、湯たんぽや厚着で寒さをしのぐそうだ。

朝は欠かさず近所のカフェに行き、新聞を読んだり執筆活動をしたり。5階の自宅に戻るときもエレベーターは使わずに足を使って上り下りしている。東日本大震災の原発事故を機に取り組んできた節電生活は、アンプラグドと題したコラムで注目された。夫なし、子なし、無職の50歳であることを選んだのは何のため? 日々生きることが冒険で、本当の幸せはどこにあるのかを追及したいのだという。

「どうなるか分かんないですよ、どこかで路頭に迷ってみたいなことが有り得るわけで」と本音を語る稲垣さんの1年後が気になる。私も真似したい、でもその機会が訪れることはないのを知っている。

もし与六がいなかったら、全てを手放して海外の小さな村に引っ越していたかも・・・の「もしも」は有り得ない。飼い主に頼るしか術のない小さな命の頭を撫でながら、とりあえずはこの子を守るために頑張るのが、今の私の人生だ。

次に生まれ変わったときは絶対に猫になって、一生面倒見てくれる人を探すからね。ベランダに干していた掛け布団を取りこんだら、すかさず与六がピョーン。ゴロンゴロンと転がって幸せそうに目を細めた。

朝から花曇り。うすら寒くても風はなく、鎌倉はこの週末がお花見のピークだろう。改修工事を終えて通行が再開した鶴岡八幡宮の段葛は、観光客でぎっしりと埋まっているはずだ。私もウォーキングに出かけなきゃと思いつつ、徹夜疲れが溜まって身体を動かす元気がない。諦めて部屋着のままスマホを持ち、一番近いソメイヨシノを見に行くことにした。パソコンに向かって家籠りしている間に、浦島花子になってしまったような。

公園の端、マンションの敷地にひっそりと咲く1本。めったに人が通らない階段に腰を下ろして、逗子で迎える10回目の春に挨拶する。ここ数年は観桜会や友人たちとの宴会をパスして、ひとり花見をすることが多くなった。出不精になったわけじゃなく、満開の桜が美しければ美しいほど、帰ってこない思い出に胸が痛むからだ。

東京に住んでいたころ、気の置けない地元仲間で徒党を組み、恒例行事としていた洗足池のお花見が懐かしい。携帯電話で場所取りや買い物の指示を出し、酔っぱらいグループを仕切っていたのはもうこの世にはいない彼だ。

うっかり斜面に陣取ったおかげで、崖下に転がっていく缶ビール。足が痺れてお尻が冷たくなるビニールの敷物。今年は失敗だったと笑いながら、降り注ぐ花吹雪に息を止めた一瞬の静寂。
「桜を見るのはこれが最後かなあ」
末期がんの余命宣告を受けていた彼がポツリと呟いた。「絶対に来年も見られるよ」と勇気付けて、それ以上は何も言えずにみんなで薄桃色の枝を眺める。その後はどうしたのやら、日が暮れて周りの屋台に灯りがともった時で記憶をシャットアウトしたらしい。

さくら さくら
やよいの空は 見わたす限り

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この場所は春が遅いのか。今日はまだ満開に至っていない一本桜と、歌詞が途中までしか思い出せない童謡で夕方を迎えてしまった。「さくらさくら」をスマホで検索しながら、原稿書きが待っている部屋に戻る。ダメだなあ、こんなおひとりさま。

かすみか雲か 匂いぞ出ずる
いざやいざや 見にゆかん

来年こそはノルマを早めに上げて、誰かとお花見に出かけよう。遅ればせながら恋の花を咲かせたくなった、目指せ!脱センチメンタルの4月である。

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