文章で稼ぐ贅沢

作詞からプログラミングまで、文字を並べて生きる物書きのひとりごと @ 逗子

昨日は友人たちのクリスマス・コンサートを聴きに逗子の教会へ行った。ツリーが飾られた聖堂に座るのは久しぶりで、湘南白百合学園に通っていたティーンエイジの頃を思い出す。中学受験で入学した私にとってカトリック教育はまるで異国に来た気分。「主の祈り」と「天使祝詞(アヴェマリアの祈り)」を丸暗記することから始まって、ミサではベールを被った女性信者を羨ましく眺めながら、負けじと「アーメン」を言うタイミングを図ったりしていた。

お祈りもすっかり板についた頃、嬉しかったのは朝礼で聖歌(讃美歌)を歌う大役を戴いたとき。放送室でマイクの前に立ち、中高の全校生徒に向けて歌う係だ。二人一組なので失敗することはなかったけれど、曲目はその朝に告げられるので、初めての曲の場合はぶっつけ本番で聖歌集の音符を追ったものである。

今でも空で歌える大好きな曲はカトリック聖歌305番「みははマリア」。

♪み母マリア 身も心も
 とこしなえに 献げまつる
 朝な 夕な 真心もて
 君をのぞみ 慕いまつる
 みめぐみこそは きよき慰め
 輝かしき 君がかむり
 うるわしき 君がえまい
 ああ我ら深く 慕いまつる

 み母マリア この汚れし
 我らの身を 清めたまえ
 この憂世(うきよ)を しばし避けて
 とわの栄え 仰ぎまつる
 花咲き匂う 天(あめ)のみ国へ
 たどる道を 照らしたまえ
 いまわにも みめぐみもて
 罪あるこの身を 守りたまえ ♪

美しいメロディと宝塚歌劇団みたいな歌詞が女子校にマッチして、属していたコーラス部でも定番となっていたが、よく考えてみれば臨終の歌。しかしキリスト教での臨終とは地上での罪が許され、神のもとへ召される安息への旅立ちなのだから、決して悲しい歌ではないのだろう。

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昨日のコンサートではシューベルトの「アヴェマリア」やモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が歌われ、これもまた懐かしさでいっぱい。♪Ave verum corpus natum de Maria Virgine♪というラテン語の歌詞もちゃんと覚えていて、心の中で一緒にコーラスすると時間が逆戻りする。

教室のスピーカーから流れる私の声はどう聴こえただろうと思いを巡らしながら、セーラー服を着たクラスメートの顔が出演者たちの顔にオーバーラップした。

「夢」という言葉ですぐ思い浮かべるのは、橋幸夫と吉永小百合が歌った日本のオールディーズ「いつでも夢を」だ。実家にテレビが現れた日、家族が目をほころばせて見ていた画面で知った歌。

「星よりひそかに 雨よりやさしく
 あの娘はいつも歌ってる
 声が聞こえる 寂しい胸に
 涙に濡れた この胸に
 言っているいる お持ちなさいな
 いつでも夢を いつでも夢を
 星よりひそかに 雨よりやさしく
 あの娘はいつも歌ってる」
(作曲:佐伯隆夫 作詞:吉田正)

幼かった私に意味は分からずとも強烈にリフレインした言葉の「夢」が記憶に残った。それからウン十年後、2014年11月28日に東日本大震災復興支援イベントで宮城県の亘理町を訪ね、改めて「夢」について考える環境と歳に向かい合っている。

亘理町

そのイベントは私が所属している奉仕団体で「ドリームプロジェクト」という名称だった。住居の殆どが津波にさらわれ、3年目にしてやっと再建された中学校でJリーグ選手によるサッカー教室とお笑いトリオ「我が家」によるコント。元気になるための授業として金曜日の午後を割り当て、生徒たちは走って笑って夢の授業に参加してくれた。

サッカー教室

しかし体育館で大人たちと生徒たちとの対話が始まったとき、どうしようもなく嫌な思いになった。それは「あなたの夢は何ですか、将来どんな仕事をしたいですか」という質問だ。親の仕事を継ぎたいとか自衛隊に入りたいという生徒たちには大きな拍手が送られたけれど、「何になりたいか分からない、まだ夢がない」と答えた生徒に対しては皆が黙った。お笑いトリオと主催者代表は「一生懸命やって探し続けていれば、いつか見つかるよ」とアドバイスしたけれど、その子に何が起こったかの状況を知りもせず、通り一辺倒な励ましは空しい。

トークショー

津波に襲われて校舎の屋上で助けを待っていた生徒たち。大切な人たちを失い仮設住宅に住み、3学年で88人しかいない生徒たち。見渡す限り更地になった所々には沼が出来て、彼らは魚釣りをして遊んでいるという。なぜこんな更地の真ん中にある学校に通うのか、下校時刻に来る送迎バスに乗って仮設住宅まで帰っていくのは、周りに何もなくなった中学校だとしても愛する地域に再建された校舎で絆をつないでいたいからなのだ。

泣く・怒る・悲しむでなくて笑う。失いすぎた彼らに問う「夢」という言葉が重すぎて、そして参加した主催者たちは高齢なので今さら「夢」でもなく、何のイベントなのだか溜息しか出なかった。夢や希望といった通り一辺倒の言葉しか使えないのは物書きの私には耐えられず、奉仕団体を退会したい旨を伝えた。しかし取り囲まれて説得され、悶々とした状況が続いている。

「夢」って何ですか?
いつからいつまで見られるのですか?
意味の分からない幼児でも、呆けた高齢者でも見られるのですか?
聞かれたら必ず答えなくてはいけないのですか?

被災地へ出向いた記事をこの数年に渡り書いてきたけれど、今回は時系列の話は書けない。そして次はいつ被災地へ行く覚悟ができるのかも分からない。被災者の皆さんの笑顔を戴くことが目的なんだという意見もあるけれど、相手が「いつでも夢」を必要としているのかどうか、私だって訊ねられれば返答のしようがない曖昧な言葉に悩んでしまうのはどうしたものだろうか。

紅葉

ベランダから見る紅葉がひときわ赤い。去年よりずっと寒く思えるのは猫も同じか、冷え込む明け方には与六が必ず腕枕をせがみにくる。早起きしたいのに、柔らかいぬくもりを抱えていると起きるに起きられず、片方の手でスマホのメールチェックをするのが日課になった。

ポプラ

午後から都内で会議のあった昨日は一日を通して時雨。マンションの斜行エレベーターへの道には濡れたポプラの葉が寒々と散っている。逗子行きのバス停に下りてがっかりしたのは、晴れた日にはちんまりと出店している移動式の花屋さんがいないこと。実はここで先日とても可愛い光景を見たのだ。

その日は小春日和。小学校中学年とおぼしき男の子が3人、その花屋さんにやってきた。リーダー格と思えるイケメンくんが友だちを紹介して言う。「この子のお母さんが病気だから、お花をプレゼントしたいんだって」。
予定金額は150円。店員さんにお金を渡した男の子は地味で小さい白い花を選んだ。すると店員さんは「それじゃお見舞いには寂しいな。お金は気にしないでいいから、どれでも好きなのを選んでいいよ」と太っ腹だ。いちばん高い、真っ赤なポインセチアに目を促している。

そうは言われても図々しくはできない。イケメンくんは同じ赤色でも「アネモネなんていいんじゃない」と200円ぐらいの鉢を指さした。ブランドTシャツを着て、アネモネという名前まで知っていて、ちょっと足の出る値段を選ぶとはただモノじゃないぞ。
しかし主役のシャイな子は最初に選んだ地味な白い花の前でウロウロしている。同じ種類でもピンクがあるのに、なぜその花がいいのか周りは首を傾げているが、店員さんは黙って頷いていちばん元気な鉢を選んだ。

鉢を袋に入れてもらうのを待つ間、彼らは妖怪ウォッチの話で盛り上がる。何かの事情があるにしろ、家庭環境の違いはあるにしろ、みんなやっぱり普通の小学生だ。賑やかな声をあげながら走っていく後姿を見ながら、あと一か月後にすてきなクリスマスが来ますようにと願いをかけた。今どきの子はサンタクロースなんて信じていないかもしれないが、きっと神様がサプライズをくれるはず。

バスと電車を乗り継いで都内まで2時間かかる場所に住んでいても、こんな心あたたまる光景を見られるのは一等地に違いない。復興支援のボランティアで宮城県の亘理町まで出向く明日は、晴れたバス停に立てればいいなと天気予報をチェックした。

重たいと思われるかもしれませんが、前回の記事について結果を書きます。父に継母の死を伝えるべきかどうか、介護施設の責任者、保健師、法定代理人、家族で様々な意見が出ました。いつも父に付き添ってくれていた保健師さんは「余生をゆっくり過ごすためには何も知らせないほうがいい思います」と涙をボロボロこぼしたことに、自分がいかに至らない娘だったかを知りました。

皆が頭を抱え込む問題となったのは、父の場合は普通の痴呆とは違って脳の損傷による障害なので、正常な部位がどう反応するかが想像できなかったのです。大きなショックを受けて絶望の淵に立ったらどうしようかと、誰にも先が見えませんでした。しかし話し合った末に自分がもしその立場だったらと考えれば、黙っていられるよりは教えてもらった方がいいという結論に達して、ありのままを選んだのです。

まずは法定代理人が端的に伝えに行き、父の反応は「あそう。あそう」と穏やかであり、継母ではなく私の名前を口にしたそうです。ショックを受けていないことが分かって会いに行くと、ちょうど昼食の時間。運ばれてきた食事はご飯もハンバーグも煮物もフルーツも全てが絵の具のような液体でした。

急いで食べるとむせるので、「ゆっくりね」と声をかければ私の目をみて頷き「ゆっくりゆっくり」。
スプーンですくう前に口腔内のものを飲み込むように、「ごっくんね」と声をかければ、スプーンを置いて「ごっくんごっくん」。
驚いたことには以前だったら手から口へ行くまでに震えてこぼしていたのが、今は残さずちゃんと食べることができるのです。美食家で文句ばかりだったくせに、水さえも「おいしいおいしい」。終われば「お薬、お薬」。子どもがえりした父が可愛くて可哀そうで、私から継母については言えずじまいで、山のようにオーバーラップしてくる長い思い出がひとつひとつ頭上に昇っては消えていきました。

こんな私に限らず、辛い気持ちを抱えて悩んでいる方が沢山いらっしゃるでしょう。愛した人、憎んだ人を忘れることはできませんが、想いは昇華していきます。一昨日よりは昨日、昨日よりは今日と、食事の量が増えてきた自分がたくましく思えます。神様に五体満足を授けられたことに感謝して、明日も皆が笑顔になる良い天気でありますように。読んで戴いて本当にありがとう。

今日はパソコンデスクの下に、ミニ・ホットカーペットを敷きました。すかさず与六が寝そべって、私が足を置くとカプリと噛みついてきます。馬鹿ニャンコっ!と怒りつつ、小さくても我がままな家族がいてくれるから辛いことを乗り越えていける。「私と同じ寿命でいてね」と声をかけ、やがてクークーと聞こえてきたイビキに癒されている晩秋の深夜です。

ここ数回のブログを読み返すと暗いことばかり。継母のことでご心配をおかけしました。

拍手ボタンを押して下さった皆様、拙い記事に関心を示して下さった皆様、本当にありがとうございます。やっと今日(11月13日)の午前中に父を訪ねることになりました。介護施設の責任者および父の法定代理人と共に、継母の死去を伝える予定です。

継母を今か今かと待ち続けている父にどうやって打ち明ければいいのか・・・。居室の外で事前に綿密な相談をしてから話すことになりますが、父ならず継母の心身まで気遣って下さっていた施設スタッフの心優しい皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。お悔やみを下さる顔々を想像するだけで今から涙がこぼれてしまい、至らなかった自分、トラウマの重圧に潰されている自分を情けなく思わずにはいられません。しかし生きていくために、面談の後には仕事の打ち合わせに出向かなければならず、凛として気丈にならねば!と自分に言い聞かせています。夜には笑って酒席にも出ます。

そしてもうひとつ、また一人とても大切な友人が夏に急逝したことを知りました。このブログに時々書かせて戴いた方ですのでショックは大きく、心の整理がついてからお悔やみの文章は後日アップ致します。

It's your turn、It's my turn. カードゲームの如くジョーカーを引く順番はいつか自分に巡ってきますが、神様に生命を戴き、この宇宙にたった一人しかいない自分を大切に守っていきます。皆様本当にありがとう! これからもどうぞ宜しく! まっすぐに強く美しく、しぶとく生きていきますからね。

明日起きられないといけないので睡眠導入剤は止めて、ぬくぬくした与六を抱いて自力で眠ってみることにします(;'∀')

眠りたくて眠りたくて、この数日は睡眠導入剤のお世話になっている。目を背けたくなる困難から逃げようとしている自分が嫌いだけれど、何も考えずにいる時間が欲しいのだ。処方箋の用量にプラス1錠で、どっぷり無の世界に入る。

継母が突然死したことを今日は介護施設にいる父に伝えに行く予定だったが、施設長と相談の結果、先延ばしすることになった。痴呆状態といっても父がどんな急反応を示すか予測が付かず、加えて私自身の心労が溜まっているのも大きな要因である。全ては法定代理人にお任せして、施設長のOKが出てから訪ねることとなった。

あんな妾に人生の大半を虐げられてきた!と憤ってきたのに、訃報を聞いた日の晩に出かけた馴染みの店で、諮らずともボロボロと泣いてしまった。仕事のトラブルを抱えた友人の悩みを聞くために行ったのだけれど、彼女は明るく飲んで愚痴を喋り続け、電車の時間があるからと帰ってしまった。お人好しな私は残されてポツリ。

独りでいても馬鹿話で盛り上がるカウンター席は楽しく、私向けにあつらえてくれた料理は美味しく、「ゆりさん」と呼んでくれるスタッフたちは優しく、笑って笑って笑って・・・。なのに我慢しようとしても目から溢れ出てくる涙が止まらない。ヒックヒックと嗚咽となり、薄々事情を知っていたマスターがそっとスペシャルなリキュールを一杯差し出してくれた。「大好きです」と大学生のスタッフが抱きしめてくれた。

本当に分からない。死ねばいいと呪ってきた敵が本当に死んだとき、笑うべきはずが号泣したのは何故なのか。私が貰った不思議な宿命として、嫌がらせを仕向けた相手が崖を転がり落ちていくのを何度も見てきた。その最骨頂である継母が、誰にも看取られずに床に崩れて息絶える瞬間に何を思ったのか気になる。そして今は空の上か無空間からか、葬儀に対しても無関心を貫いた義理の娘にどんな目を向けているのだろう。いやそれ以前、継母は愛する男のためにしか生きれられない女だったが、お館様のように崇めていた父を裏切った人たちにこれから何が振りかかるのだろう。

今月の下旬には東日本大震災で被害を受けた地域へ復興支援のイベントに出向く。亡くなった沢山の住民たちの魂に向けて、こんな継母への恨みつらみでイジイジしている私が祈りを捧げていいのものか、悩んで出てくるのは溜息ばかり。ハアーッと言うたびに心労が増えていくようで、兎にも角にも睡眠時間を増やしているのである。

心理カウンセラーの資格を取り、辛い思いを抱えた方々の相談に乗りたかった私がこんな状況でどうするのかと思いながら、またひとつ越えなくてはならない山の高さに身震いしている。魂を弔うために出家すべきか。しかし私は言葉で綴るしか才能がないので、悲しみのやり場に困っている方々の役に立てるよう、寒い冬を乗り越えていく温かい心の筆を育てるしかない。絶対に誰かのためになる小説を書こうと決意して、準備をしているこの霜月である。

今朝早く、継母の妹から電話がかかってきた。嫌な予感は当たって「姉が3日に亡くなりました・・」と静かな声。心筋梗塞で亡くなっていたところを訪れて発見したという。遺された手帳から知っている名前は私しかなく、葬儀は継母方の身内で内々に行うとの報告だった。

1週間前に継母が起こした騒ぎについては前々回のブログに書いた。救急隊員によれば身体に異常がなくて病院に運ぶのは断られたが、うつ病がその後の心筋梗塞に繋がったのだろうか。亡くなってから今日の電話まで数日かかったのは何故だろうか。しかし詮索はせず、「ご連絡ありがとうございます。亡くなったことを父の法定代理人に伝えておきます」しか返答できなかった。

継母と私とは血縁も養子縁組もないのだから、遺品整理に行くこともない。どこに住んでいるかすら知らない。気になるのは実家を売却した際に、持って行った父の身の回りの品と写真だがそれもやがて不要になるもの。捨ててしまったか、継母の手元に保管されていたかは定かじゃないけれど、もう処分して下さいというのが正直な気分だ。

年齢を重ねるたびに、あちらの世界が特別なものではないと思うこの頃。電車で次の駅に行くように、魂がそのまま死後の世界に移動するのだろう。そこは先に逝った人々が元通りに暮らしている世界かもしれないし、喜怒哀楽など存在しない虚の世界かもしれない。分かっているのはひとつの命が平成26年の現実から消え、抜け殻となった肉体を誰がどう片づけるかということだ。

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薄情と言われようと涙は出ず、故人を偲ぶ気になれず、今日は淡々と仕事をひとつ終えた後、ベランダでぼんやりと空を眺めている。立冬だというのに、雲のあいだから差す日差しは柔らかくて小春日和。彼女によって破壊された家庭は写真の中にしかなく、それも戻っては来ないけれど、あっけらかんと訪れたこの日をどう過ごそうか、子ども時代に戻った心はページが全て真っ新になった。

盛り上がったハロウィンが終わって11月。与六に羊の衣装を買ったり、ウィッグで仮装したり、パンプキンマンと2ショット写真を撮ったり、お祭り騒ぎに加わった先月末は嘘のように終了して、静かな晩秋の到来である。

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逗子駅から徒歩で帰った昨夜は、晩秋の季語「秋惜しむ」にぴったりな夜空。雲の間から見え隠れする月は月齢9.2なのに、なんだか満月みたいに大きくて近い。民家の屋根越しに見る優しい月、高台の公園から見る孤高の月、スマホのカメラを向けては立ち止まってムーンウォッチングを楽しんだ。

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今年の立冬は11月7日。暦の上ではあと数日しか残っていない秋をどうして過ごそう。歳時記からピンとくる俳句を探して情景を思い浮かべる。

「松風や軒をめぐって秋暮ぬ」(芭蕉)

「旅ごころ淡し夜寒の猫抱けば」(下村ひろし)

「火を恋ふや早めひともす一人の灯」(青木静江)

「秋夕焼わが溜息に褪せゆけり」(相馬遷子)

「ストーブを置く位置かへし冬支度」(渋沢渋亭)

一人歩きを楽しむ逗子マリーナから材木座へのウォーキングも、水色からグレーに色変わりした海を見ると、冬の近さが心に寒風を送る。人恋しい季節が始まったなあと後ろを振り向いて、帰巣本能が疼きだす残り2か月の今年となった。

「逝く秋や海はおのれの色に還る」(渡辺喜久子)

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日付が変わろうとする月曜日の深夜、「○○さんという方はご存知ですか」と静かな声の男性から電話が入った。声の主は救急隊員で、呼んだのは継母(正確には彼女が住むマンションの管理人)である。

寒気がすると訴えて119番。救急隊が到着して容体を診たところ何の異常もないのに、わめき散らして手の付けられない暴れ様だったという。
「とても申し上げにくいのですが、○○さんは精神病院に行かれるべき状態と思います。しかしこの時間、救急車では対応できません。」
継母の妹の連絡先を伝えたところ、アドレス帳に○が付いている番号には連絡済で、電話には出なかったという。幾つか当たった後に同じ名字の私のところへ・・。

またかと思った。何で今さら連絡が来るのかと思った。介護施設に入っている父のために私の連絡先は公開しているけれど、継母は私に対して住まいも電話番号も一切明かしていない。それどころか父の財産を隠し持っていると疑って訴訟を起こし(父の資産は法定代理人預け)、この介護施設は信用できないから家の近くに移せとロビーで大騒ぎし(自分が通いやすい施設だからと最初に選んだのは継母)、誤嚥性肺炎防止のためペースト食しか食べられない父に巻き寿司やカップ麺を無理やり口に入れる等、介護施設のスタッフからも要注意人物とチェックされる行為を行ってきた。都合が悪くなると「しばらく入院します」と言って連絡をシャットアウト。何人もいた愛人全てが去って寂しい父にとっては、呆けても女の声が聞きたくて継母の携帯に電話するが、「おかけになった電話番号は・・」のアナウンスが返ってくるのである。

我が家を崩壊した継母について語れば切りがなく、幾つかの記事には暗い思い出を書いた。ブログの右下にある記事検索ボックスに「継母」と入力して下されば出てくる。母というものに縁がなく、私を連れて死のうとした実母もやがて新しい男に走って、時たま幸せな日々を自慢げに知らせてくるので返信を絶った。面白おかしい話を聞いてくれない娘にはもう連絡がない。

救急隊の電話から眠れないままに迎えた火曜日の午後、父の1年間のケアプランを決めるために介護施設スタッフとの面談に出向いた。心臓に入れたペースメーカーも異常なし、血圧も異常なし、マヒした左半身のケアや口腔ケアも万全、食欲旺盛、何もかもが問題なしなのでこのまま継続をお願いした。

そして私は検査した血圧と尿酸値が「要」のマークが付くほど高く、風邪の熱が1か月経っても37度より下がらないのだが、健康そのものな父は「ありがとう」と握手を求める。なのに「私が誰か分かる?」と聞くと???の顔。「ゆり子でしょ?」と答えると「そうか、そうか」と頷いて「食べるものは持ってきたか」と相変わらずの要求をするのは笑わずにいられない。「○○は入院しているから来られないんだ」と寂しく呟く顔を見て、継母は夕べ救急車を呼んで大騒動を起こしたんだとは絶対に言えなかった。

なんだかな、どうしようかな。この状況を相談する相手は誰もいなくて、帰宅途中のスーパーで買ってきた食材の袋を下げ、マンションのドアを開けて与六の頭を撫でる。暗い玄関で待っていてくれた猫の頭は温かく柔らかく、たった一人(一匹)の家族の優しさに涙が溢れ出た。

12月にやってくる誕生日&クリスマス。たぶん継母が更なる仕掛けを持って私を攻撃している真っ最中だろう。シンデレラや白雪姫ならハッピーエンドが訪れるのに、こんな年増にお伽噺は無縁な存在だ。

映画やドラマより危機溢れる人生を小説にしようかと思いつつ、本当にどうした良いものか。ブログを読んで下さる方に質問を投げかけるのは初めてながら、疲れ切った私にアドバイスを戴ければ嬉しいな。交番から巡回にきたお巡りさんに対して「緊急連絡先の身内は誰もおりません」って答えたとき、目が丸くなる衝撃を受けたのは他らならぬこの自分である。うわーっ、ネガティブ満載の私。でもこれしき、負けてなるものか!だからしぶとく生きていけるのかもしれないぞ(泣)。

都内の仕事や飲み会で遅くなって電車に飛び乗り、逗子駅に到着するのは上手くいくと夜11時半ごろだ。タクシーに乗らず、小坪経由鎌倉行き11:34の最終バスに間に合えば儲かった気になる。バスさん、待っててね!とホームから階段を上り下りして改札口に向かうと、1番線には品川行の最終電車が発車を待っている。「上り最終です。お急ぎくださーい!」のアナウンス。そこで思わず立ち止まる。

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改札を出てロータリーに走らなきゃいけないのに、上りの電車に飛び乗りたい焦燥感に囚われるのは何故だろう。ドアが閉まるよ!!、さあ今だ!!、走って飛び乗って!!と急かす声。ずっとずっと昔、恋に夢中だった19歳の私が背中を押しているように思うのだ。

恋にうぶい。この秋に楽しみにしているTVドラマは「今日は会社休みます」。30歳の誕生日までバージンだったOLが、9歳年下の大学生と恋に落ちる物語のウキウキ感がたまらなくて必見だ。

お嬢様学校育ちだった私に初めて彼氏ができたのは大学2年生のとき。帝国ホテルで開催したソーシャルダンス・パーティーに、場違いなジーンズ姿で来たイケメンと踊るように先輩から命ぜられたのが始まりで、私は彼に一目惚れしてしまった。バイトしている青山のバーガーショップに偶然を装って訪ねていき、やがて手をつないで帰る仲になったのである。

そのころ私は東横線沿線のマンションに住んでいた。鎌倉の実家から広尾の大学までは通える距離だったけど、父の会社を手伝っている母と一緒にいるという条件で東京暮らしを許してもらえたのだ。もちろんそれには魂胆がある。毎日とは言わずとも母は義務として祖母のいる実家に帰らざるを得ず、帰宅が決定した時点で私は思い切り自由な時間を得る。母が鎌倉へ帰るのかどうか、マンションでテレビを見ながら私が作った不味い夕飯を共にして、「今夜は帰るわね」と母が車のキーを手にするまでは判断が付かなかった。

よーし、ラッキー!母が出ていった後にすぐさま身支度と学校の用意を整えて、彼の部屋に電話する。最終電車、迎えに来てくれた京王線の駅で待ち合わせ、二人でアパートの端っこのドアを開ける瞬間は至福そのものだった。彼と同じ大学だった隣人には薄い壁を隔てて相当の迷惑をかけたと思うが、初めての恋人が好きで好きで好きで・・・どうしようもなかったのである。しかし・・。

燃え上がった初恋でありながら、大学4年で別男性に目が眩んで婚約してしまった私。ホテルオークラでの華々しい披露宴も意味なく数年後には離婚と至り、そのまま独身を貫いているオバサンがここにいる。

そして今は猫と暮らす逗子のホームタウン。こんなに年月を経たのに、上りの最終電車に飛び乗りたい衝動を止められないのは何故だろうか。誰かが待っていてくれるの?最終の行きつくとこまで行きたいの?帰れなかったらどうするの?
ずっと答えは出ないまま顔を上げ、改札口でスイカをタッチする。23時34分の鎌倉行き最終バスに間に合って、玄関で待っている与六ニャンに満足するのは、思い出肥りな女の行く末なのだろうか。

このブログで恒例としている七夕の書下ろしラブストーリー、別れちゃったしょっぱい味の思い出を甘い味に摩り替えて、来年のネタは決まったと思う。せめて夢の中だけでもみんな未来のハッピーエンドが好きなのだから。

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